2010-05-28 | |
テーマ:お寺 |
関連:観音加持青龍会 2011(清水寺) / 清水寺の紅葉 / 清水寺の桜(サクラ) / 盂蘭盆会(清水寺) / 観音加持青龍会(清水寺) / |
清水寺
こんにちは、京子です。
京都の修学旅行で回る世界遺産のお寺、といえばっ
もうここしかないですよね★
清水寺(きよみずでら)
さて、この清水寺
本堂を大規模に改築したとてもゆかりのある人物というのが
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
という人物なのですが本日は、坂上田村麻呂が
清水寺を改築した理由について併せて紹介したいと思います
まずは正門である、仁王門を抜けて飛び込んでくるのが
鐘楼(しょうろう)と梵鐘(ぼんしょう)です
鐘楼というのがこの建物で、中に見える鐘が梵鐘と言うそうです。
清水寺はいつ来ても見事な朱色に目を惹かれます。
鐘楼は江戸時代、梵鐘は室町時代のものだそうですよ
こちらは三重塔!
高さは31メートルと三重塔の中では日本最大級だそうです~!近づかないとわからないのですがこの屋根の四隅についている鬼瓦ですが、東南の角にだけ龍がついています♪
仏教では、釈迦が生誕した時に2匹の龍が7日間、清浄水の雨を降らせ、身に覆って守護した事から水の神様として根付いたそうで防火の守護神としてこの瓦に付けられたそうです~
うーん、仕事が細かいっ!!
その、三重塔の次に現れたのが
経堂です。
教典を中に収蔵しているそうですが、この日は作品の展示場としても使われていて、中には数対のマネキンのような人形がビックリ
さて、冒頭でもお話しましたが
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
なる人物
この清水寺の改築着手において、ひとつの石碑を建てます
それが
阿弖流爲(アテルイ)母礼(モレ)の碑。
清水寺を路順通りにぐるーと回った終盤に建っている石碑です。
この阿弖流爲と母礼という人物ですが、共に蝦夷(今の東北)の軍事指導者でした。坂上田村麻呂はこの清水寺に阿弖流爲と母礼の碑を建てたのです。
では、これから
西暦789年にタイムスリーップ!!
この、坂上田村麻呂という人物ですが
当時、朝廷より征夷大将軍に任命されるのです♪
さて、この征夷大将軍ですが、この言葉ってどういう意味?
これを朝廷からもらえると幕府が開ける!というイメージだと
思うのですが、語源は古くこの時代まで遡るのです
征夷大将軍というのは
阿弖流爲のいる、蝦夷(エゾ)を征圧・征服するための役職だったのです!
阿弖流爲により、当時、朝廷とは別の権力で統治されていた蝦夷。
朝廷と阿弖流爲(蝦夷)による戦いが続いており
苦戦を強いられていた朝廷側は
いよいよ征夷大将軍を受けた武士・坂上田村麻呂を
蝦夷へ向かわせます
坂上田村麻呂
「阿弖流爲よ!いつまでたっても争いは耐えない武力の数ではいずれお前は負けを認めなければならないんだ。お互い犠牲者が増えるよりも、今ここで降伏される事を願う!」
阿弖流爲
「だけど、俺は殺されたくねぇ!負けるわけにはいかない!」
坂上田村麻呂
「よしわかった!じゃあお前がここで降伏すれば、お前の命はとらないと約束しよう、どうだ?」
と、こんなお話だったと記憶しています。
そんな男の約束に、阿弖流爲はとうとう降伏するのです。
そして、坂上田村麻呂は征夷大将軍としての役割を果たします。
ですが、悲劇はその後起こります・・・
その坂上田村麻呂夫妻の像が眠る田村堂。
さて、この坂上田村麻呂も朝廷からいただいた征夷大将軍。
征夷大将軍とは
天皇の指示を仰ぐことなく全ての軍事作戦、軍事行動を指揮する権限が与えられています。
というよりも、蝦夷(この時は東北)で戦う坂上田村麻呂にとってすべての軍隊の統帥権を朝廷に一任されたほうがより自由な戦いが出来るからだと言えるでしょう。
このように、征夷大将軍は軍事的なニュアンスだったのですが
それが源頼朝により
征夷大将軍という意味合いが「政治を取り仕切る武士の称号」に徐々に変わっていったのでした。
ですので、
「幕府を開く」事と「征夷大将軍」になる事は本来の意味では全く関係なかったんですよね。
ちなみに現在はあの有名な王政復古の大号令によって征夷大将軍というポストも今では廃止です
先ほどの朱色の煌びやかな建物とは一転、轟門(とどろきもん)。
坂上田村麻呂と阿弖流爲のお話はひとまず置いておいて
さぁ、いよいよ皆さんお待ちかねの例のアレ!が見えてきましたっ!
そうです~!
清水の舞台っー
どうですか?まるで浮いてるように見えませんか!?
そうこれはまさに、天空の城ラピュタ!
この舞台で写真を撮った人は多数いらっしゃると思いますが、この丁度、舞台になっている部分に恐る恐る近づいて下を見てみるとやっぱり
( ´Д`)うーん、怖い
ちなみに舞台の土台はこのようになっています、これが有名な「清水寺の舞台のつくり」マニア好みな一枚でしょうか?
そしてもう一枚、別アングルからどうぞ~
「清水の舞台から飛び降りる」ということわざは
皆さんご存知かと思いますが「思い切って行動をする事!」を指すのですが
じつは実際にこの舞台から飛び降りた方も京子はニュースで聞いた事あります(汗)
そんな舞台から境内を振り向いてみると
おや??なにやら仏像が・・・
ふれ愛観音
いい顔されてます~うーん、癒されます
釈迦堂。コチラもシックな色使いです。
舞台直前には赤い服のユニークな大国さん♪
舞台を後にし、歩いていくと
ん?
なんだか、視線を感じる・・
ん!?
こ・・
これは・・!?
百体地蔵堂ーっ!
この百体ですが、子供を亡くしたご両親がその子に似た地蔵を探し崇拝したそうです。これだけいらっしゃるとちょうどぴったりの顔があるのかもと頷けます。すごい。
舞台を過ぎた奥の院にはこれが見えます~
かわいい~
濡れ手観音
とっても小さな観音様♪
これに水(清水)を掛けて願い事をするのです~
さて、そんな水続きですが
うーん、やっぱり、並んでますねー!
そして賑わってますねー!!
こちらっ↓
音羽の滝
この水を飲むことで御利益があるという事でみなさん並んでらっしゃいます。「金色水」「延命水」と名づけられた水が流れ落ちているそうです~
うーん、私も長生きする事を願って
家の冷蔵庫に常備して毎日でも飲みたいところです♪(笑)
さて、そんな欲張りな京子ですが
いよいよ見えてきました。
征夷大将軍を受けた坂上田村麻呂が
阿弖流爲(アテルイ)母礼(モレ)の為に建てた石碑。
阿弖流爲母礼之碑
右上には「北天の雄」と書かれています。
さて、見事に
坂上田村麻呂は阿弖流爲を納得させ
無事一件落着と思った矢先・・・
なんと朝廷により
阿弖流爲は死刑となります。
男の約束を果たせず・・阿弖流爲の命を守れなかった坂上田村麻呂。
そんな彼がせめてもの弔いと思い、この清水寺に
阿弖流爲(アテルイ)母礼(モレ)の碑を建てたのです。
顕彰碑にもそのなれそめが書かれています
清水寺にも、そんな悲しい過去があったなんて・・・
なんだか京子は楽しいはずの清水寺がひどく
切なく映ってきます(泣)
そういえば、坂上田村麻呂でピーンと来たのですが
確か、「おじゃる丸」の苗字が坂ノ上、そして居候先の家の苗字が田村。
これって何か関係あるのかな?
そんな清水寺の場所はコチラ↓
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