こんにちは京子です。
さて、本日は・・・
鷺森神社(さぎのもりじんじゃ)を
ご紹介します
場所はドコにあるのかと言いますと
京都市の北東に位置する修学院と呼ばれるエリアにあります。
ちなみに、この修学院には
修学院離宮や曼殊院などもあるんですよ。
そして、隣り合う一乗寺エリアには
全部を徒歩で回るのは少し厳しいかもしれませんけれど
自転車や車を使えば、修学院や一乗寺に建つ神社仏閣を
まとめて回る事も可能です。
鷺森神社の名前の由来は、神の使い(神使)とされる「鷺(さぎ)」が
集まっていた事から、名前が付いたと言われています。
つまり、鷺の集まる森!
っていう事なんでしょうね。
創建は平安時代で、その後応仁の乱で焼失し
修学院離宮のすぐ側に再建されました。
しかし、後水尾天皇による離宮の造園に伴い
現在の位置に移動したという事です。
※都合2回、場所が移動しているというワケなんですね。
鳥居をくぐっても、まだまだ参道が続きます
その距離、200メートルほどでしょうか。
紅葉のシーズンには、この長い参道には
楓や銀杏が咲き誇るそうで
紅葉スポットのひとつに挙げられる事も多そうです
境内に到着すると、中央には舞殿があります。
こちらの鷺森神社では、毎年5月4日、5日には祭事が行われていまして
特に5日の神幸祭は「さんよれ祭」とも呼ばれているんですね。
京都の奇祭とも言われている「さんよれ祭」は小学三年生の男の子が頭に菅笠を被り、着物を着て紅たすきをかけ手に扇子を持った姿で「さんよれ、さんよれ」のかけ声を上げ神輿と一緒に練り歩くお祭りだそうです。
そして、こちらが拝殿になります。
丁度、舞殿から伸る階段の先にあります。
祀られているのは素戔嗚尊(スサノオノミコト)です。
奇稲田姫(クシナダヒメ)を守る為に八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した事は有名ですよね
実は、素戔嗚尊自身もヤマタノオロチに負けず劣らずの
暴れん坊だったそうで
姉の天照大神(アマテラスオオミカミ)のもとを訪ねた時に
悪童非道を繰り返した事から
爪をはがされ、髭を抜かれ追放されたというエピソードも残っています。
※ちなみに、スサノオノミコトの「スサ」とは、「荒ぶ(すさぶ)」や「凄まじい」に通じ、その名の通り猛々しい神様の事だったという事なんですね。
姉に怒られ、痛い目に合い追放された素戔嗚尊ですけど
その後、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を見事に退治するんですね。
※このエピソードが貴船祭で再現されていました。
そして、ヤマタノオロチを退治した事がきっかけで
素戔嗚尊は出雲国を治めると同時に奇稲田姫(クシナダヒメ)をお嫁さんに迎える事となりました。
そこで詠んだ歌が
「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」
どんな意味かと言いますと
「雲が湧き出るという言われる出雲の国に、八重垣を巡らすように、雲が立ちのぼっている。俺は妻の宮殿に何重もの垣を作る。出雲の八重垣のようにね。」
という事みたいです。
これが日本の最初の和歌だったりします
そのお話にちなんで名付けられた縁結びの石と言われる「八重垣」です。
この石に触れると悪縁を断ち切り良縁になると言われ
夫婦和合、家内安全にもご利益があるそうです。
また、ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲が帰化するにあたり、八雲という名前をこの歌からとったという説があるんですね。
小泉八雲は、明治初頭に東京帝国大学で英語教師をしていた人物で
彼の解任後に同大学で英語教師になったのが、あの夏目漱石だったりするんですよね。
彼はいくつかの本を書いていまして
中でも1904年の著書である
「Japan-An Attempt at Interpretation」は
太平洋戦争中アメリカ人にとって
日本人の心理を理解するための最高の本だったと言われています。
拝殿の前には狛犬もいました。
ひとつは、足元にボールのようなものが
そしてもう一匹の狛犬は親子なんですよ。
足元に小さな狛犬がいるのわかりますか
なかなか珍しいですよね。
さて、最後に修学院離宮にゆかりのものもありました。
それが・・・
御幸橋です。
修学院離宮の正面入り口に架けられていた橋を移築したものです。
この橋は、後水尾天皇も渡られたという事が説明されていました
こうして、鷺森神社の境内で今も現役として活躍している橋なんですね。
そんな修学院離宮からも程近い
一乗寺にあります鷺森神社の場所はコチラっ↓
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