こんにちは京子です
さて、本日は!
「平家」の名を轟かせ、武士が時代の表舞台に登場するきっかけを作った人物である・・・あの、平清盛っ!
今回は、その清盛の娘である「建礼門院 徳子(けんれいもんいんとくこ)」ゆかりのお寺である・・・
長楽寺(ちょうらくじ)をご紹介します
一体、平清盛の娘である「徳子」とはどんな人物だったのか 合わせて詳しくお話したいと思いますね~
さて、まずはじめに
長楽寺の場所はどのあたりかと申しますと
観光スポットの中心といってもいい場所にあります。
しだれ桜が有名な、八坂神社の東側「円山公園」から歩いてすぐの所なんです
まずは、こちらが入り口周辺ですね。
長楽寺の後ろには、すぐに山がせまっております。
つまり
・・・・境内は高低さが激しいのが窺い知れます(汗)
(・∀・)ノとにかく気合を入れてレッツゴーしちゃいましょう!!
っと、その前に~こま札チェッキン
こちらの長楽寺は
あの平安京を作った天皇である、桓武天皇の勅使を受け
弟子にラブレターを送っちゃった事でも知られる坊さんで
伝教大師と呼ばれる「最澄」の開基でスタートした
お寺だという事なんですね~。
さて山門をくぐりますと・・・
階段!(汗)
階段!(汗)
階段!(汗)
門をくぐって早々、足腰を鍛えられるなんて
うん・・・ええ・・・幸せですよ(汗)
それにしても、この長い階段はとっても
絵になるなーって思いませんか??
それもそのはず、ここ長楽寺は紅葉の名所としても知られているんですよね。今年の紅葉が楽しみだー・・・ちょっと気が早すぎるけど(汗)
そして、階段を上がると
見えました・・・っ!
本堂ですね。
この中には、一遍上人(いっぺんしょうにん)像があるそうです
ん?一遍上人??
「上人」って付いてるって事は、お坊さんというのは分かりますけど
この一遍という人はどんな人なのかと言いますと
(・∀・)ノ踊念仏で仏教を民衆に広く説いた人なんです。
仏教は大きく、「自力」と「他力」に分けられます
そもそも、仏教が伝来した頃は
信仰が出来たのは貴族の方たちのみだったんですね~。
どうして、民衆は出来なかったのかと言うと
「修行をし、莫大な時間とお金を使い悟りを開く」
というのがスタイルだったからなんです。
そして、このスタイルを「自力」と呼びます。
それに対して「他力」とは・・・
厳しい修行をしなくても、時間やお金に余裕のない農民でも「天国に行けるよ~!」と説き、平民や農民に広がった教えなんですね。
※代表的な人といえるのが空也ですよね。
そんな他力派である一遍も民衆に愛され
全国を遊行(ゆぎょう)、つまり民衆に歩いて教えて回っていたんです。
※この際に、鐘や太鼓を打ち鳴らし踊りながら念仏を唱える事を踊念仏と呼びました。
この事から一遍は、別名「遊行上人」とも言われたんですね~。
そして、一遍は新しい宗派である「時宗(じしゅう)」開きました。
こちらの長楽寺も、最初は最澄が開基だったので天台宗だったんですけど室町時代には時宗の寺院になったそうですよ。
この他にも本堂の中では
現在、大河ドラマでも放送されている「お江」の娘である徳川和子(東福門院)が寄進した
厨子(ずし・仏具)なども公開していましたよ~。
さて
本堂から道なりに左へと進んで行きますと
建礼門院御塔(けんれいもんいんみとう)
さて、建礼門院とは、清盛の娘である「徳子」の事なんですけれど
彼女は清盛にとって、そして平家にとって
大変すごーい事を成し遂げちゃうんですよね~
それが・・・
第80代天皇「高倉天皇」の
子供を産むのです
つまり、平家(武士)と天皇(朝廷)との間に子供が生まれるんですね。
それが・・
あの・・「安徳天皇(あんとくてんのう)」なのです。
こちらは「平安の滝」滝壷を囲む石壁をよく見てみると多くの石仏があります。
滝の側には「収蔵庫」があります。安徳天皇が着ていた直衣(のうし)を使った「安徳天皇御衣幡」や建礼門院、安徳天皇それぞれの御影などがあります。もちろん見る事が出来ますよ。
なな、なーんと、まだまだ先があるとの事で階段をどんどん上ってみたいと思います!
これに大喜びなのは
やっぱり清盛ですよね~っ。
そして・・・予想通りと言いますか
(・∀・)ノ徳子の息子であり、清盛の孫でもある安徳天皇は2歳で天皇に即位します。
えー、2歳で何が出来るの!?と言われると
・・・もちろん何も出来ません(汗)
なので、政治の実権は清盛が握ったんですね。
清盛からすれば
よっしゃー!キタコレ!ってなモンじゃないですか~。
しかし、ご存知の通りそんな時期は長くは続かず
清盛が64歳で病死すると
全国的に源氏が挙兵し一気に追い込まれるコトとなるんですね(泣)
※その中には、源頼朝や、源義経、そして木曾義仲こと源義仲もいました。
攻め入られた形の平家。
徳子や安徳天皇は都落ちをし、各地を転々とし
一時は福岡太宰府まで落ちのびたと言われています。
山の中腹まで昇って来てているような気がしますけど、ここで道が二手(橋or階段)に分かれています。
橋を真っ直ぐ行くと・・・京都市内を一望!気持ちいいですね~っ
そして、階段に昇ると何があるのかというとお墓です。幕末の文人である「頼山陽(らいさんよう)」のお墓です。彼の書いた「日本外史」は史伝小説として発行され尊皇思想の広まり、ベストセラー!維新思想の原動力となった有名な本なんですね。ちなみに、彼の息子さんも安政の大獄で処刑さえたそうです(泣)
そして、いよいよ源平の最終決戦である
「壇ノ浦の戦い」が始まります。
下関には合計で1000艘以上もの船が浮かび、戦闘が始まりました。
その場にいた安徳天皇は
当時8歳ですから、何が起こっているのかもまだ
ちゃんとは分かっていなかったんでしょうか?
それとも、各地へ逃げ惑う平家の状況に何かしらの不安を感じていたのでしょうか
もう、平家に後がない。。
いよいよ終わる。。
そう思ったのは、清盛の側室であり、徳子の母親でもあった二位尼(にいあま)です!!
彼女は目に大粒の涙を浮かべながら
孫の安徳天皇の手を取り、こう言います。
二位尼「私どもは・・・悪縁に導かれ、ご運はもはや尽きました・・この世は辛く汚らわしい世界です。」
安徳天皇「尼よ・・手を取り、ドコへとわたしを連れていくのじゃ?」
二位尼「はい・・これから・・極楽浄土という場所へ・・お連れいたします・・」
安徳天皇「・・・そうか。」
それを察したのか静かに
安徳天皇は小さな手を合わせて念仏を唱えます。
それを見つめる二位尼。
二位尼
「波の・・下にも、それは・・・それは素敵な・・都がございます(泣)」
そう言い放つと、彼女は安徳天皇を抱き壇ノ浦の急流に身を投じ入水したのです
※これと同時に、天皇の証明である三種の神器も海の中へと沈む事となり「草薙の剣」はその際に失われます。
頼山陽のお墓の他にも、尊皇攘夷運動をした水戸藩の烈士の墓所「尊攘苑」があります。そして、水戸藩と言えば最後の将軍「徳川慶喜」。彼の弟である徳川明訓(とくがわあきくに)のお墓もありました。
こちらは平安の滝から下へと階段を下った先には素敵な庭園が見れるとの事・・・
それがコチラ!室町8代将軍「足利義政」の命令により銀閣寺の庭を作る前に、試作的に作ったと伝えられているのがこちらのお庭だそうですよ~。
庭園の見える建物の脇には山岡鉄斎書の手水鉢がありました。
激流へと飛び込んだ二人。
安徳天皇は歴代最年少の8歳という若さで崩御されました。
そんな時、お母さんである徳子は何をしていたのかと言うと
後を追うように、入水自殺を図ろうとし海に飛び込んだんですね
しかし・・・・
幸か不幸か救助され、生きながらえる事となるのです(泣)
彼女にとっては
息子を失い、母を失い、平家も滅亡し
生きていくのはとっても辛かったんじゃないかなと思うんです( ´Д`)
徳子は京都へ送還されます。
・・・ちなみにこの長楽寺と徳子はどんな関係があるのかと言いますと
その後、彼女は出家し京都で尼となるんですけれど
この長楽寺で剃髪したそうなんですね。
徳子、その時、29歳。
若くして苦労されております・・・(泣)
そして、大原「寂光院」で安徳天皇と一門の菩提を弔ったと言われています。
そんな長楽寺の場所はコチラ↓
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