2015-08-10 | |
テーマ:お寺 |
西福寺(東山区)
今回ご紹介するのは
京都市東山区の轆轤町(ろくろちょう)にある
西福寺(さいふくじ)です!
近くには、みなとや幽霊子育飴本舗
(ゆうれいこそだてあめほんぽ)や
六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)
六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)のあるエリアですよ
ちなみに西福寺という名前のお寺は
実は京都に何箇所かあって
ここは東山区にある西福寺なんですね
西福寺は轆轤町という
なんとも難しい地名の場所に
あるんですけれど
この轆轤町、もともとは
髑髏町(どくろちょう)と
呼ばれていたそうです!
髑髏町の髑髏とは
ガイコツの事ですよ~
どうして髑髏町と呼ばれていたのかと言いますと・・・
平安時代、この辺りは
死者を捨てて風葬した場所であった
『鳥辺野(とりべの)』の
入り口だったみたいなんです
そんな場所ですから
おびただしい数の髑髏が転がっていたといわれ
この事から、この辺りを
髑髏町と呼ぶようになったというんですね
けれど江戸時代になってから
髑髏町では不吉だろうという事で
轆轤町に町名が改められたんだそうですよ
さて、そんな場所にある西福寺は
浄土宗のお寺で正式名称を
桂光山敬信院というそうです
お寺の由緒が書かれた額
平安時代の初め
弘法大師(こうぼうだいし)空海(くうかい)が
自作の土仏の地蔵尊を安置したのが始まりとされています
空海がお堂を建てた時には
この辺りに6つのお堂があったそうなんですけれど
現在では、西福寺を入れて3つとなっています。
ちなみにこの地蔵尊は
嵯峨天皇(さがてんのう:第52代天皇)の
皇后になられた橘嘉智子
(たちばなのかちこ:
檀林皇后(だんりんこうごう))が
皇子である正良親王(まさらしんのう)が
病気にかかった際に
病気平癒の祈願をして無事に治った事から
子育て地蔵尊と呼ぶようになったそうですよ。
1608年(慶長13年)には
安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の菩提を弔う為に
毛利家の家臣であった井上安芸守が
蓮性を開山に迎えて、お堂を建立したそうです
※安国寺恵瓊は、毛利家の家臣で交渉事に大変優れていた事から毛利家の対外交渉を引き受け、黒衣の宰相とも呼ばた人物です。黒衣の宰相とは、僧職でありながら権力を持った人の異名の事です。
その後、お寺は一時衰退したそうですけれど
1678年(延宝6年)に念故が中興し
1727年(享保12年)には、関白であった
二条綱平(にじょうつなひら)が
父である九条兼晴(くじょうかねはる)の為に
再興したんですね
それでは中に入っていきましょう
山門
こちらの山門をくぐると
正面には、末廣不動尊を安置され
末廣不動尊が安置されています。
左手に水子地蔵尊が安置されています
水子地蔵尊が安置されています。
そして末廣不動尊の右手には
本堂があるんですね。
本堂
本堂の前には
迎え鐘(むかえがね)がありました!
六道参りをして、この鐘を鳴らすんですね
迎え鐘
鐘の音は、あの世まで響くといわれ
鐘の音を聞いたご先祖様が帰って来られるといわれています
ちなみに六道参りというのは
先祖の精霊を家にお迎えする精霊迎えの
行事の事なんですよ
※六道参りについて詳しくは、六道参り 2010(六道珍皇寺)の記事をご覧下さい。
そしてこちらは本堂に安置されている
阿弥陀如来坐像
ご本尊・阿弥陀如来坐像です
仏師である春日の作と伝わっていて
四十八願所巡りの
第31番目に数えられています。
花天井
そしてこちら本堂の天井は花天井となっていて
たくさんの花が描かれていました~
とっても綺麗ですよね
最後に、ここ西福寺で
最も見てもらいたいものが
六道参りの際に公開されている
檀林皇后九想図
(だんりんこうごうきゅうそうず)です。
檀林皇后九想図(だんりんこうごうきゅうそうず)
檀林皇后九想図とは
屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく
経過を9段階にわけて描いた仏教美術の絵画の事で
檀林皇后は死後、自らの死骸を埋葬することを禁じ
道ばたに放置させ、体が腐乱し白骨化していく過程を
絵師に描かせたんですね
こちらは檀林皇后像です。
檀林皇后像
檀林皇后はとても美しく
その美貌は僧侶さえ虜にしてしまったそうで
深く仏教に帰依していた皇后は、こうした状況を憂いて
「あらゆるものは移り変わり、永遠なるものは一つも無い」
と、いう事を自らの体で示したんだそうですよ
そんな西福寺の場所はコチラ↓
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