メモ2014-12-29
テーマ:カフェ・スイーツ

亀屋陸奥

今回ご紹介するのは

西本願寺のすぐ近くにある

亀屋陸奥(かめやむつ)のお菓子を

ご紹介したいと思います


その名も『松風(まつかぜ)』です!



こちらが亀屋陸奥の本派本山松風調進所で

創業は1421年(応永二十八年)と

数百年規模のお店が数多く残る

京都の中でも老舗中の老舗なんですね~



そんな亀屋陸奥で売られている松風は

戦国時代に生まれたお菓子と伝わっているんですよ


時は戦国時代の1570年・・・


天下統一を目指していた
織田信長(おだのぶなが)と
当時、最大の宗教的武装勢力である
浄土真宗本願寺勢力(一向宗)との間に
石山合戦(いしやまがっせん)が起こります


その戦いの最中

信長に本願寺の周囲を包囲され

食料が厳しくなってきた中

顕如(けんにょ・本願寺第11世住職)や門徒達は

亀屋陸奥の3代目・大塚治右衛門春近(おおつかはるえもんはるちか)が考案した

あるお菓子を食べて

篭城戦を戦い抜いたといわれているんですね~


そのあるお菓子こそが今回ご紹介する
『松風』なんです。



ちなみに本願寺について簡単にご紹介しますと

当時の本願寺とは現在の西本願寺の事です

※今でも本願寺と言えば西本願寺を指します。


西本願寺の阿弥陀堂(本堂)

こちらは阿弥陀堂(本堂)です。


もともとは清水寺近くの

廟堂(大谷本廟)から発展したお寺で

その後、山科、大坂へと移ったんですね。


ちなみに大坂本願寺の事を

石山本願寺と呼んでいます。

※石山本願寺があった場所は、後に大坂城が建つ事となります。



こちらの松風は
お米を使わずに小麦粉で作った和菓子で
カステラのような見た目なんですよ。


ちなみに生地は小麦粉、砂糖、麦芽飴、白味噌を混ぜたもので

それを発酵させ表面にケシの実を振りかけて焼き上げるんだそうです。


実際に食べてみると・・・


カステラとは違い

弾力性が強く噛みごたえのある食感で

きつ過ぎない味噌の風味が口の中に広がって

とってもおいしかったですよ


松風は8枚入り以外に

16枚、24枚、32枚、48枚と

いろいろなバリエーションがありました


でもなぜお寺と

戦国大名である信長が戦う事になったんでしょうか?

気になりますよね~


実は信長の最大のライバルは

戦国大名達では無く

本願寺だったといわれています


当時、本願寺は今のようなお寺ではなく

軍事力も持っていたんですね


しかもその軍事力というのが

戦国大名や為政者も

無視する事が出来ない程だったそうなんです!


また、本願寺は

莫大な資金を持っていて

経済力も戦国大名を

はるかに凌いでいたといわれています。


もはや一大国家ですよね~


それを証明するかのように

当時、日本に来ていた

イエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラは本国へ


「諸人の彼に与うる金銭甚だ多く
日本の富の大部分は
この坊主(顕如)の所有なり」


といった手紙を残しているんですよ


経済力の凄さが伝わってきますよね!


そんな本願寺を

信長がほっておくはずもなく

1568年に室町幕府の将軍

足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて

京都に入京すると顕如に対し

さまざまな要求をしたそうです。


始めの頃は顕如も
要求を聞いていたんですけれど
石山本願寺を明け渡すよう言われた時に
ついに顕如は拒否するんですね!


それもそうですよね


顕如はその後

反信長勢力を築くべく

各地の戦国大名と手を結び

信長に対抗していき

石山合戦へと繋がっていくんですね。


顕如は約10年も信長と戦った末に

石山本願寺を退去し

信長と和睦する事になります。


のちに篭城していた時の事を振り返り

「わすれては波のおとかとおもうなり
枕にちかき庭の松風」

と詠んだといわれています。


それ以降、春近が作ったお菓子は

『松風』と呼ばれるようになったんだそうですよ


ちなみに信長と和睦した顕如なんですけれど

息子である教如(きょうにょ)は

まだまだ戦えると言って篭城します。

※結果は・・・明け渡す事になるんですけれど


石山合戦についてはまた別の機会に

ご紹介しようと思っています。


顕如ゆかりのお菓子である松風がある

亀屋陸奥の場所はコチラ↓


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