2014-05-16 | |
テーマ:お寺 |
光福寺
今回ご紹介するのは
左京区の出町柳と呼ばれる地域にある
光福寺(こうふくじ)です!
同名のお寺が南区にもありますけれど
こちらは左京区にある浄土宗知恩院派のお寺なんですよ。
光福寺は
鎌倉時代の寛元(かんげん)年間(1243~47年)に
道空(どうくう)が現在の長岡京市(西山安養谷・あんようがたに)に建立した
斎教院(さいきょういん)というお寺が始まりなんですね~
その後、1582年(天正10年)に
月空宗心(げっくうそうしん)によって
現在地へと移されました。
山号は干菜山(ほしなざん)といって
正式名称を・・・
干菜山斎教院安養殿光福寺(ほしなざんさいきょういんあんようでんこうふくじ) というそうです!
それにしても干菜山なんて
ちょっと変わった名前ですよね~。
実はこの名前!
ある人物が大きく関わっているんです
その人物とは・・・
日本で最も出世した男と言われる
太閤・豊臣秀吉(とよとみひでよし)です
1593年(文禄2年)
秀吉が鷹狩りに出掛けた際に
このお寺に立ち寄ったんですね。
その際、時の住職であった月空宗心が
寺の窮状を訴えるために
秀吉に大根の干した菜っ葉を献上したと言われています
秀吉はその菜っ葉を見ると
月空宗心の心を感じ取り
手厚く保護したそうですよ♪
干菜山光福寺と言う名は
その時の干した菜っ葉から名付けられた称号なんですね~
そういった事から光福寺は
ほしな寺と呼ばれる事もあるそうですよ
称号も通称も
ユニークなネーミングですよね
ちなみに道空は六斎念仏を広めたことで
大変有名な人物です。
その功績により
後柏原天皇(ごかしわばらてんのう・第104代天皇)から
六斎念仏総本寺の勅号を
賜ったと言われています。
※六斎念仏の免許を与える権限を持っていたみたいです。
その事は光福寺に伝わる
六斎念仏興起書(ろくさいねんぶつこうきしょ)に
書かれているそうですよ
六斎念仏は
今から1100年前の平安時代、空也(くうや)によって
行われた事が起源とされ
六斎日(月に6日ある、災いを呼ぶ日)に
鉦(しょう・円盤状の鐘)を使って
念仏を唱えていた事に由来しています。
その後、六斎念仏は空也堂系と呼ばれる
歌舞伎や狂言の出し物を取り入れ
独特の節回しや太鼓、笛を加え
宗教色を薄くした『芸能六斎』と
念仏本来の姿を伝えている干菜寺系と呼ばれる
『念仏六斎』とに分かれていったそうです
ちょっと前置きが長くなりましたけれど
それではさっそくレポートしていきましょう
山門をくぐると境内目の前に
本堂が見えるんですね~
参道は両脇に松の木が植えられていて
静寂の中にお寺があるといった印象でしたよ。
静かなお寺っていいですよね
こちらが本堂です!
ご本尊に花園天皇(はなぞのてんのう・第95代天皇)から賜った 閉目(へいもく)の阿弥陀如来像が安置されています。
こちらは
本堂前の勢至丸(せいしまる)像です。
勢至丸とは、浄土宗の開祖である
法然(ほうねん)の幼名の事で
この像は、若かりし頃のお姿というわけですよね
こちらは境内右手にある観音堂です。
如意輪観世音を安置しています。
こちらは月空宗心の故郷より移したとされる
宇津の井戸です。
その井戸の後ろにある玉垣は
以前あった鎮守社である八幡宮の玉垣と言われています
八幡宮再建の資金を集めるため
1645年(正保2年)に下鴨神社の糺の森で
10日間の勧進相撲が行われた話が伝わっているんですね。
玉垣には勧進角力の玉垣と書かれていました。
ちなみに勧進相撲は
寺社の建立や修繕費のために行われ
江戸時代には歌舞伎や吉原と並ぶ
三大娯楽の1つになったそうですよ。
八幡宮を再建するために
相撲で資金を集めるなんて
面白い取り組みですよね~
ちなみにこの時に行われた相撲は
諸説あるようですけれど
勧請相撲の始まりと
言われていたりもするそうです。
この他、収蔵庫には
六斎念仏興起書等の諸文献や
秀吉寄進の陣太鼓、秀吉の画像等も
所蔵していると言われています
そんな光福寺の詳しい場所はコチラ↓
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