2014-04-30 | |
テーマ:史跡 |
日本近代医学発祥之地
今回ご紹介するのは
日本近代医学発祥之地です!
ここは山脇東洋(やまわきとうよう・江戸時代の医学者)によって
人体解剖が行われた場所なんですよ
※すぐ近くに武信稲荷神社などがあります。
人体解剖と聞くとオランダ語訳の
『ターヘル・アナトミア』を翻訳して
『解体新書(かいたいしんしょ)』を発表した
杉田玄白(すぎたげんぱく)が有名ですよね。
しかし
杉田玄白が解剖を見るよりも
17年も前に!!
日本で初めて解剖を見た人がいたんです。
その人物こそが山脇東洋だったんですね~
彼は京都亀山(京都市の北東)の医者の家に生まれ
理論よりも実践を重視する
古方派(こほうは・古医方派とも)の漢方医術を
学んだと言われています。
マンションの敷地内に建つ石碑。日本近代医学のあけぼの『山脇東洋観臓之地』と書かれています。
その後、彼は漢方医学の
五臓六腑説に疑問を感じると
その疑問を解決すべく
人体と構造が似ていると言われていた
カワウソを何匹も解剖するんですね。
けれど・・・何度カワウソを解剖しても
彼の疑問が解決することはありませんでした
そんな中、六角獄舎(ろっかくごくしゃ)で
斬首刑になった男がいると耳にします。
同じ場所に建つ『殉難勤王志士忠霊塔』の石碑。六角獄舎で処刑された勤王志士らの霊を祀っています。
六角獄舎というのは牢獄の事で
正式名称を三条新地牢屋敷といいます。
※平安時代に造られた左獄、右獄の左獄が前身と言われ各地を転々とし、最終的に六角の地に留まったことから六角獄舎とか六角牢と呼ばれたそうですよ。
幕末には過激な攘夷論者など
政治犯が多く収容されていた事から
『会所』と呼ばれる事もあったそうです
※池田屋事件のきっかけとなった古高俊太郎や、伏見を救った人々『伏見義民』も投獄されていたそうです。それぞれについて詳しくは、古高俊太郎邸跡、天明伏見義民顕彰碑の記事をご覧下さい。
そんな六角獄舎で
なんと東洋は死体の解剖を
京都所司代の酒井忠用(さかいただもち)に
願い出るんですね。
※京都所司代とは、京都の治安維持の為の組織の事です。
ちなみに当時、人体の解剖は人道的な見地から
タブー視され、禁止されていました。
ですから東洋の提案を聞いた
酒井忠用は
かなり驚いたと思います
しかし酒井忠用は彼の願いを理解して
解剖の許可を出すんですね!
一説には東洋の弟子が
酒井忠用と同じ若狭国小浜藩出身であったから
許可が下りたと言われています。
死体解剖に選ばれたのは
六角獄舎で斬首刑になった
屈嘉(くつよし)という人物でした。
その後、東洋は解剖を見た5年後にあたる
1759年(宝暦9年)日本で最初の解剖書
『蔵志(ぞうし)』を発表します。
『蔵志』の発表は
のちの日本の医学界に大きな影響を
与えたことは言うまでもありません
また、東洋の解剖の話を知った杉田玄白は
多いに刺激され、羨ましがったと言われています。
そして現在、六角獄舎のあった場所は
マンションになってはいますけれど
東洋の偉業を称えるとともに
解剖され臓器を見られた屈嘉の霊を慰めるため
石碑が建てられているというわけなんですね。
そんな日本で始めて人体解剖が行われた
日本近代医学発祥之地の詳しい場所はコチラ↓
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