2013-08-11 | |
テーマ:神社 |
中山神社
今回ご紹介するのは・・・
中山神社(なかやまじんじゃ)です
こちらの神社は
平安時代後期~鎌倉時代前期にかけて
後白河法皇や源頼朝に重用された公卿(くぎょう)である
中山忠親(なかやまただちか)の邸宅跡に建つ神社です!
※公卿とは公家の中でも国政を担う職位(高官)を指す言葉です。
まずは、こちらの神社の
起源についてご説明させていただきますっ
創建されたのは
ちょうど平安京に都が遷都された794年です。
時の天皇である桓武天皇(かんむてんのう・第50代天皇)によって
創建されました
現在は二条城の少し南に位置しますが
創建当時は二条城の北側にあったそうですよ~。
祀られているのは以下の三柱となります。
・素盞嗚命(すさのおのみこと)
国産みの神とされる伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の息子にあたる神様で
『出雲神話』において『ヤマタノオロチ退治』などのエピソードが残されている
出雲にゆかりの深い神様の1人です。
※詳しくは貴船祭 2012(貴船神社)の記事をご覧ください。
・櫛石窓神(くしいわまどのかみ)
・豊石窓神(とよいわまどのかみ)
この二柱は、同一視される場合も多い神様で
別名『門守の神』と言われています
古来より、宮殿の門などに祀られていた守り神のようで
御所においても内裏(だいり・宮中の中心部分で天皇の住居などもある区域)の
門を守護する為に祀っていたと言われています
創建後は、嵯峨天皇(さがてんのう)の
冷泉院(れいぜいいん・嵯峨天皇が退位後すごした院)の鎮守社とされ
崇められたそうです。
しかし、その後
徳川家康による二条城の造営に伴い
現在地(二条城の南)に移動する事となったんですね~。
移動する以前は
境内に大きな岩座(いわくら・神様が宿る大きな石)があったとされ
この事から別名『岩上(いわがみ・いわかみ・いそがみ)宮』や
『岩上神社』などとも呼ばれていたそうですよ~。
拝殿には『岩上大明神』と書かれた額を発見!
ちなみに、この名前は
現在地に移ってから町名(現在地・中京区岩上町)として
残されています。
岩座がなくなっても、町名として残るなんて
歴史を大切にしているなぁと感じますねっ。
拝殿の左手奥には鳥居が並びます。
その先には、末社『清久稲荷神社(きよひさいなりじんじゃ)』があります。
さて、正式名称である『中山神社』は
どういった理由から付いたのかと申しますと・・・
冒頭でもご説明したように
公卿・中山忠親の邸宅跡に建てられた事に由来します。
神社には跡地を記す石碑が建っています。
彼は藤原北家の流れを汲む、藤原忠宗の三男として生まれました
その後、時の権力者である
平清盛、後白河法皇、源頼朝らに重用され
最終的には
内大臣(ないだいじん)にまで出世するんですね
※どの程度の位なのかと言いますと、公家のトップ『太政大臣』を筆頭に、左大臣⇒右大臣⇒内大臣という順番になっています。
そんな彼は『書』の方でも活躍した人物のようで
代表的なものに
『山槐記(さんかいき)』や『水鏡(みずかがみ)』と
呼ばれるものが残されています
・山槐記
彼の日記として記されたもので
1151年~1194年までの出来事が綴られています。
資料の欠損が激しく『保元の乱(ほうげんのらん)』や
『平治の乱(へいじのらん)』に関する記事など
所々が抜けているそうですが
安徳天皇の誕生や、 源平合戦(治承・寿永の乱)などについて記された
貴重なものだと言われているんですよ
彼が政界の情勢に通じていた事が分かるものとなっているそうですっ。
※安徳天皇や源平合戦に関して詳しくは長楽寺 その1の記事をご覧下さい。
・水鏡
物語のスタイルをとった歴史書で
神武天皇~仁明天皇が在位した期間の間に
起こった様々な出来事が記されているそうで
藤原氏や天皇家についてのエピソードなどが
多数盛り込まれているそうですよ。
話の書き出しは、ある修行僧が
年老いた仙人から聞かされた話を、尼に物語るという
当時では珍しい、斬新な語り口調で書かれています
という事で、本日は中山忠親の邸宅跡に建つ
中山神社をご紹介しました!
場所はコチラ↓
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