今回ご紹介するのは
京都市左京区にある
長徳寺(ちょうとくじ)です!
長徳寺は、1605年(慶長10年)に
裏寺町(うらてらまち)に創建されたと
伝わる浄土宗の寺院です
開山は、万愚牛廊で
開基は摂津溝口領主の
長谷川宗仁(はせがわそうにん)と
伝わっているんですね
その後、火災にあって
焼失してしまったんですけれど
1672年(寛文12年)に現在地に
移ってきました
長徳寺山門
現在地のこの場所には、かつて
鴨川(かもがわ)と合流する
砂川(すながわ)があったそうで
当時、長徳寺は
正定院(しょうじょういん)
常林寺(じょうりんじ)とともに
『砂川の三軒寺
(すながわのさんげんでら)』
と呼ばれていたそうです
長徳寺の石碑
そんな長徳寺の山門前には
ピンク色のオカメ桜(オカメザクラ)があって
京都で大変有名なんですよ~
長徳寺のオカメ桜(オカメザクラ)
なぜかと言いますと・・・
一説によると、このオカメ桜
京都市内で最も早く咲く、早咲きの桜と
言われているからなんですね
開花がなんと
2月下旬くらいといわれていますから
これは相当早いです
オカメ桜
このオカメ桜は1947年(昭和22年)に
発表された栽培品種の桜で
花が下を向いているのが特徴です
イギリスの桜研究家である
イングラムが
寒彼桜(カンヒザクラ)と
豆桜(マメザクラ)を
交配させて作出したんですね
オカメ桜の説明書き
ちなみにオカメ桜の名前の由来は
福を呼ぶ面相として愛されている
『おかめ』のお面にちなんでいるそうで
日本の美女になぞらえて
名付けられたというワケです
地蔵堂
そして山門の右手には、延命地蔵
(えんめいじぞう)とも呼ばれる
北向地蔵尊が安置される
地蔵堂があります
こちらのお地蔵さんは、かつて
百済(くだら:古代の朝鮮半島南西部にあった国)の
国王の守本尊(まもりほんぞん)であったといわれ
飛鳥時代(あすかじだい)の舒明天皇
(じょめいてんのう:第34代天皇)の頃
(在位期間629~641年)に
日本に伝わってきたというんですね
※守本尊とは、自分の身の守りに信仰する仏像の事。
長い間、宮中にあったそうなんですけれど
平安時代の823年(弘仁14年)に
西寺(さいじ)の守敏(しゅびん)に下賜(かし)されました。
※下賜とは、身分の高い人が身分の低い人に物を与える事。
その後、紆余曲折を経て
こちらに安置されたんですね
…と、このまま境内の中も
ご紹介したいんですけれど
非公開寺院となっていますので
中のご紹介は出来ません
長徳寺境内
けれど、境内墓地には
勤皇の志士である
小林良典(こばやしよしすけ)の墓が
ある事で知られているんですよ
小林良典は、江戸時代
五摂家のうちの1つ
鷹司家(たかつかさけ)の家臣で
幕末、ペリー来航以来
攘夷(じょうい)を主張した人物です
※五摂家とは、かつて摂政(せっしょう)や関白(かんぱく)を輩出した藤原家を祖とする家柄で、近衛家(このえけ)、九条家(くじょうけ)、鷹司家、二条家(にじょうけ)、一条家(いちじょうけ)の事。
その後、1858年(安政5年)に
『安政の大獄(あんせいのたいごく)』に
連座して、江戸(えど)に捕らえられ
遠島の刑(えんとうのけい)を
受けたんですけれど
江戸の獄中で病没したそうです。
※遠島の刑とは、島流しの事です。
ちなみに安政の大獄とは
江戸幕府が1858~1859年にかけて
尊皇攘夷派(そんのうじょういは)や
一橋派(ひとつばしは)の大名や公家
活動家ら100名以上を弾圧した事件です
※尊皇攘夷とは、天皇を尊ぶ思想と、外国人(夷狄(いてき))を攘(はら)うという攘夷思想が合わさった思想。
当時の大老(たいろう)である
井伊直弼(いいなおすけ)らが
日米通商条約(にちべいつうしょうじょうやく)を結んだ事や
将軍、徳川家定(とくがわいえさだ)の後継ぎを
徳川家茂(いえもち)にした事に
反対する者達を弾圧したんですね
という事で今回は
オカメ桜で知られる長徳寺をご紹介しました!
長徳寺の場所はコチラ↓