今回ご紹介するのは
京都市上京区の西陣(にしじん)にある
![妙顕寺(みょうけんじ)](2015/11/06/01/2015-11-06-1.jpg)
妙顕寺(みょうけんじ)です!
妙顕寺は、院号を龍華院(りゅうげいん)
山号を具足山(ぐそくさん)と言う
鎌倉時代の1321年(元亨元年)に
日像(にちぞう)によって建てられた
京都で一番最初の日蓮宗
(にちれんしゅう)のお寺なんですよ
![大本山妙顕寺](2015/11/06/01/2015-11-06-3.jpg)
大本山妙顕寺と書かれています。
もともとは綾小路大宮の地に
あったそうですけれど
度重なる迫害により移転を繰り返し
1584年(天正12年)に豊臣秀吉
(とよとみひでよし)によって
西洞院二条の旧地から現在地へと
移され現在に至るそうです
![豊臣秀吉妙顕寺城跡](2014/04/18/01/2014-04-18-4.jpg)
旧地には豊臣秀吉妙顕寺城跡と書かれた石碑があります。※詳しくは、二条城跡の記事をご覧下さい。
ここで日像について
簡単にご紹介させて頂きますと・・・
日像は、鎌倉時代のお坊さんで
日蓮宗を開いた
日蓮(にちれん)の孫弟子です
1293年(永仁元年)に
日蓮が臨終の際に残した遺命(いめい)を受け
日像25歳の時、京都での布教を
開始したといわれています
日蓮は長い間、悲願であった
京都での布教を弟子の日像に
託していたというワケですね!
その後、日像は
京都での辻説法(つじせっぽう)によって
多くの信者を得るんですけれど
そのうち他宗の大寺院から
迫害を受ける事となります
大寺院の朝廷への強訴(ごうそ)によって
日像は京都を追放されてしまうんですね
※強訴とは、神仏の名を語り、強引に直訴する事。
しばらくして許され戻るんですけれど
そんな時はつかの間
再び迫害されて追放されてしまいます
日像は追放、赦免(しゃめん)を繰り返し
結局人生で3度の追放を
経験する事になったといわれています
けれど1321年に(元亨元年)に許された際には
後醍醐天皇(ごだいごてんのう:第96代天皇)
によって寺領を賜り(たまわり)
ついに勅願寺となる妙顕寺(みょうけんじ)を
京都に建てる事となるんですね~
この時、日像が京都での布教を始めて28年
54歳の事だったといいます。
![こま札](2015/11/06/01/2015-11-06-2.jpg)
こま札
日像はその後、日蓮宗の発展の礎を築き
74歳の時にその生涯を閉じました。
それでは早速、中に入っていきましょう
![山門](2015/11/06/01/2015-11-06-1.jpg)
山門
こちらの山門をくぐって
長い参道を歩いていくと右手には
三菩薩堂(さんぼさつどう)があります!
![三菩薩堂(さんぼさつどう)](2015/11/06/01/2015-11-06-4.jpg)
三菩薩堂(さんぼさつどう)
三菩薩堂には
日蓮、日朗(にちろう)、日像が
お祀りされているんですよ
ちなみに日朗は、日蓮の6人の高弟である
日蓮六老僧(にちれんろくろうそう)の1人で
日像の叔父でもあります
そして三菩薩堂の左横には
鬼子母神(きしもしん)をお祀りする
鬼子母尊神堂(きしもそんしんどう)があります。
![鬼子母尊神堂(きしもそんしんどう)](2015/11/06/01/2015-11-06-5.jpg)
鬼子母尊神堂(きしもそんしんどう)
鬼子母神は、子供を殺して食べる
悪魔だったんですけど
仏の教えを聞いて改心した後
子育てや子授けの神様として
信仰されているんですよ~
ちなみに鬼子母尊神堂の前には必ずといっていい程
石榴(ざくろ)の木が植えられています
これはインドから中国に
仏教が伝わった際に
鬼子母神が右手に持つ魔除の果実である
吉祥果(きちじょうか)を
石榴で代用した為といわれているんですね!
三菩薩堂の向かいには
1713年(正徳3年)に鋳造された
梵鐘があります。
![梵鐘](2015/11/06/01/2015-11-06-18.jpg)
梵鐘
そして山門の正面には
ご本尊の十界曼荼羅(じっかいまんだら)が
安置される本堂があります!
![江戸時代の天保十年頃に再建された本堂](2015/11/06/01/2015-11-06-9.jpg)
江戸時代の天保十年頃に再建された本堂
本堂内は、写真撮影が禁止されていたので
お見せする事が出来ないんですけれど
天井には寄進した方の家紋が
びっしりと配置されていました~
![四海唱導(しかいしょうどう)書かれた額](2015/11/06/01/2015-11-06-17.jpg)
四海唱導(しかいしょうどう)書かれた額
本堂には後光厳天皇
(ごこうごんてんのう:北朝第4代天皇)より贈られた
『四海唱導(しかいしょうどう)』と
書かれた額が掛けられていましたよ~!
※四海唱導とは、国中に教えを説いて人々を導いたという意味。
![大客殿](2015/11/06/01/2015-11-06-12.jpg)
大客殿
本堂の後ろにある大客殿には
勅旨門(ちょくしもん)に面して
『四海唱導の庭(龍華飛翔の庭)』と
名付けられた庭もあります
![勅旨門(ちょくしもん)](2015/11/06/01/2015-11-06-11.jpg)
勅旨門(ちょくしもん)
左奥に見える三つの石を滝に見立てて
水が流れている様子を表した
枯山水庭園となっているんですね~
![四海唱導の庭(龍華飛翔の庭)](2015/11/06/01/2015-11-06-13.jpg)
四海唱導の庭(龍華飛翔の庭)
そしてこちらは書院の中にある五角形の
『孟宗竹の坪庭
(もうそうたけのつぼにわ)』です!
![孟宗竹の坪庭(もうそうたけのつぼにわ)](2015/11/06/01/2015-11-06-15.jpg)
孟宗竹の坪庭(もうそうたけのつぼにわ)
また、書院のお庭には
『光琳曲水の庭
(こうりんきょくすいのにわ)』
もあります
![光琳曲水の庭(こうりんきょくすいのにわ)](2015/11/06/01/2015-11-06-16.jpg)
光琳曲水の庭(こうりんきょくすいのにわ)
光琳とは、もちろん
江戸時代中期を代表する琳派の画家
尾形光琳(おがたこうりん)の事ですよ~
ちなみに琳派の『琳』は
光琳の字から取られているんですね♪
琳派は、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)と
俵屋宗達(たわらやそうたつ)を創始者とする
唐絵(からえ・中国風絵画)の技法に
大和絵の技法を取り込んだ
独特の表現手法を用いる流派
または、その技法を用いた桃山時代後期から
近代まで活躍した絵師達の総称の事です
他の一般的な流派と違って
表現手法が師匠から弟子に
または親から子といった
代々受け継がれてきたものではなく
先人の絵にインスパイアされた絵師達が
時間や場所を越えて自らの絵の中に
琳派独特の技術や精神のようなものを創造して
紡いできたんですね
そんな光琳の『松竹梅図(こうはくばいず)』
を模して作られたお庭が
『光琳曲水の庭』というワケなんです!
光琳は、妙顕寺の檀信徒であった事から
こうしたお庭が作られているんでしょうね♪
ちなみに妙顕寺の塔頭の
泉妙院(せんみょういん)には
光琳と尾形乾山(おがたけんざん)の
お墓があります
けれど通常は非公開となっている為
お参りする事は出来ません!
そして奥書院の奥には宝物庫があって
光琳の『松竹梅』や
日像が鼠のひげを筆にして書いたと伝わる
『極細字法華経』を見る事が出来ます!
こちらは境内にある寿福院十一重石塔
(じゅふくいんじゅういちじゅうせきとう)です。
![寿福院十一重石塔(じゅふくいんじゅういちじゅうせきとう)](2015/11/06/01/2015-11-06-6.jpg)
寿福院十一重石塔(じゅふくいんじゅういちじゅうせきとう)
寿福院は、加賀100万石の礎を築いた
前田利家(まえだとしいえ)の側室で
日蓮宗を篤く信仰したと伝わっています
その彼女が建てた十一重石塔という事です。
という事で今回は
日像が京都で始めて建てたと伝わる
妙顕寺をご紹介しました~
お近くに来られた際には
是非ともお立ち寄り下さいね~♪
妙顕寺の場所はコチラ↓