今回ご紹介するのは
京都市の伏見区にある
勧進橋(かんじんばし)です!
勧進橋は
京都駅より南へ約1.5キロ程行った所にある
橋なんですよ。
竹田街道(たけだかいどう・24号線)が
鴨川と交差する所に架かっていて
豊臣秀吉(とよとみひでよし)の
伏見城築城以降、江戸時代に作られたと言われているんですね
ちなみに竹田街道は
竹田村を通る事からこの名前がついたそうですよ。
また幕末には
銭取橋(ぜにとりばし)と呼ばれていました。
新選組ファンなら
銭取橋と聞いてピン!ときた方もいるんじゃないでしょうか
新選組の歴史の中で
この銭取橋というのは2回も出てくるんですね。
※新選組とは幕末の京都で結成された日本の歴史上最大で最強の剣客集団の事で京都の治安維持を目的に組織された集団なんです。新選組について詳しくは、新選組ゆかりの地巡りの記事をご覧ください。
1回目は1864年(元治元年)8月20日の
禁門の変(蛤御門の変)の時です。
※禁門の変(蛤御門の変)について詳しくは、木屋町界隈の史跡 その1をご覧ください。
禁門の変の際に新選組は
九条河原に陣を構えていたと言われています。
九条河原というのは
今回ご紹介している勧進橋の下の辺りの事です
そして2回目は1867年(慶応3年)の6月22日
武田観柳斎(たけだかんりゅうさい)暗殺の時なんです。
武田観柳斎は新選組の5番隊組長だった人で
組長というくらいですから幹部の1人だったのにも関わらず
薩摩藩と通じ新選組の情報を流していたんですよー
その事が発覚すると
局長である近藤勇(こんどういさみ)と
副長の土方歳三(ひじかたとしぞう)は
武田観柳斎と酒を飲む場を作り
彼の帰りに3番隊組長の斉藤一(さいとうはじめ)に
暗殺させるという計画を立てます
そして計画通りに酒を飲ませた後は
斉藤一と篠原泰之進(しのはらたいのしん)が
銭取橋を渡ったあたりで
暗殺したんだそうですよ。
※下手人は斉藤一と言われています。
そんな勧進橋は
現在では当時の面影はありませんけれど
明治には市電も走っていたそうです
勧進橋の場所はコチラ↓
大きな地図で見る