今回ご紹介するのは
柳池幼稚園記念碑(りゅうちようちえんきねんひ)です!
写真では少しわかりにくいんですけれど
椅子の形をしていて
座る部分に赤茶色をした円錐形のオブジェが乗っかっています。
※隣にある石碑には『京都市立堀川高等学校専修夜間部跡』と書かれています。かつて夜間クラスが設置されていたようですよ。
どういう意味があるのかは
ちょっとわかりませんけれど
かわいらしい石碑ですよね
石碑の字を見てみると
『日本最初の幼穉遊嬉場(ようちゆうぎじょう)』と
書かれていました。
※穉は今後は稚で統一します。
つまり京都は日本で初めての
幼児教育施設発祥の地
だったというわけなんです
京都って本当に
初めて発祥したものが多いですよね。
また後でご紹介するのでお楽しみに
そしてこの柳池幼稚園記念碑が
どこにあるのかと言いますと・・・
以前にご紹介した
御池中学校(おいけちゅうがっこう)にあります。
つまり京都は教育施設の
最先端をいっていたんですね~
しかし明治初頭の京都は
事実上の東京遷都によって
それまでとは違い活気を失っていたんですよ。
そんな中、京都の人々は
京都を再び活気ある街にするために
人材育成が必要だと考え
日本で初の小学校を作ることになるんですけれど
人材育成に幼児教育の重要性も
考えられていた事がわかりますよね
ちなみに日本で始めて
『幼稚園』という名称を用いたのは
東京女子師範学校付属幼稚園と言われ
現在もお茶の水女子大学附属幼稚園として
存続されています。
この東京女子師範学校付属幼稚園が出来る
約1年前に京都では
日本で最初の幼児教育施設である
幼稚遊嬉場が出来たんですよ
こういった経緯から
日本で最初の幼稚園は
東京女子師範学校付属幼稚園と書かれていたり
幼稚遊嬉場と書かれていたりするんですね。
しかし幼稚遊嬉場は
幼稚園の名称は使っていないにしても
内容は幼稚園そのものなので
私は京都こそが
幼稚園発祥の地と思います
名称で言い出したりしたら
今、旬な話題のサッカーなんて
どうなるんでしょうね。
では早速、幼稚遊嬉場がいつ頃出来たのか
少しご説明します
始まりは1875年(明治8年)
柳池小学校の校舎の一部を
幼稚遊嬉場にしたそうですよ。
この幼稚遊嬉場はドイツの幼児教育者である
フリードリヒ・フレーベルが考えた
幼稚園『キンダーガーデン』を
元にしたと言われています
その後、学制がスタートし
「幼稚小学ハ男女ノ子弟六歳迄ノモノ小学二入ル前ノ端緒ヲ教ルナリ」(第二十二章)と
定められました。
しかし幼稚小学は
小学校の一種として定義されていたものの
実際に設置される事は無かったと言われているんですね。
その理由は・・・
当時は小学校に重点が置かれていた事にあるようです。
その事から幼稚遊嬉場は
学制に基づいた幼稚小学では無かった事が
わかると思います
つまり幼稚遊嬉場は
国が作ったものではなく
これまた京都の人々の手によって
作られたということなんですね!
凄いよ京都人
しかし開設から約1年半で
廃止されてしまいます
廃止された理由は諸説あるようですけれど
時代がまだまだ幼児教育を
受け入れるような環境に無かったという意見が多いようです。
その後、京都では、1885年(明治18年)に
府立女学校に幼稚園が作られ
次々と幼稚園が誕生していくんですね。
幼稚遊嬉場は
かつてあった場所(現在の御池中学校)に
1929年(昭和4年)5月
柳池幼稚園として再び開園し
1996年(平成8年)まで続いたんですよ~
さて最初にも少しお話しましたけれど
意外にも?日本で初めてというものが多い京都!
過去にいくつか取り上げていますので
少し紹介しておきますね
・日本で最初の小学校
本日もご紹介しましたけれど、現在の御池中学校の場所に
日本で最初の小学校が作られました。
詳しくは、日本最初小学校柳池校の石碑の記事をご覧ください。
・水力発電施設
京都に活力を取り戻そうと進められた
琵琶湖疏水事業の副産物として
日本で最初の水力発電施設
蹴上発電所(けあげはつでんしょ)が作られました。
・電気鉄道が走った
水力発電施設の電力により
日本で最初に路面電車の運行が実現したんですよ。
※水力発電施設や電気鉄道について詳しくは、田辺朔朗博士像の記事をご覧ください。
・日本で初めての一方通行
江戸時代、東洞院通(ひがしのとういん・京都を南北に走る道路)は
竹田街道(たけだかいどう・京の七口の1つ)と繋がり
混雑が激しかった事から一方通行の規制が行われたと言われています。
※東洞院通は、京都タワーから真っ直ぐ北へと伸びる烏丸通り(からすまどおり)の1本東にある通りの事です。詳しくは、京のユニークな地名 その19の記事をご覧ください。
そんな柳池幼稚園記念碑のある場所はコチラ↓
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