今回ご紹介するのは
八瀬(やせ)という地域にある
𥒎観音寺(かけかんのんじ)です!
八瀬という地域は京都市左京区にあり
平安時代より、貴族や武士たちの
保養地だったと言われているんですよ
地名の由来は諸説あるんですけれど
672年、壬申の乱(じんしんのらん)の際に
大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)が
背中に受けた矢の傷を癒すため
この地に窯風呂を作り療養したからと言われています。
つまり『矢背』や『矢負』『癒背』等が後に転じて
『八背』になったというワケなんですね
※壬申の乱について詳しくは、松明殿稲荷神社の記事をご覧ください。
そんな八瀬にある𥒎観音寺は
源氏のある人物ゆかりのお寺なんです
その人物というのは・・・
源頼朝(みなもとのよりとも)や
源義経(みなもとのよしつね)の父である
源義朝(みなもとのよしとも)です!
源義朝は
NHK大河ドラマのタイトルにもなった
平清盛(たいらのきよもり)と
ライバル関係にあった武将として知られていますよね
当時(平安時代後期)、武士の扱いは
朝廷からすると番犬のようなものだったんですけれど
清盛や義朝が一緒になって戦った保元の乱(ほうげんのらん・1156年)で
今までに無い歴史的なことが起こったんです
それは武士の勝敗で
政(まつりごと)が動くという事なんですね。
※保元の乱について詳しくは、高松神明神社の記事をご覧ください。
この保元の乱の功績により
義朝も清盛も恩賞を賜ります。
しかし、その恩賞には義朝にとって
到底納得がいかないものでした
ライバルの清盛は『播磨国(はりまこく・現在の兵庫県南姫路市)の国守』を任され
義朝は『左馬頭(さまのかみ・馬寮の長官)』という官位でした。
つまり清盛は1国丸々もらえたのに
義朝はと言うと馬の飼育・調教のための役所の長官だったんです。
・・・あまりにも差がありますよね
一説にはこのときの事がきっかけで
後の平治の乱(へいじのらん)が起こったとも言われています。
平治の乱は
1159年、清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけ
京を不在にした隙を狙って
義朝が行ったクーデターをきっかけにして起こった乱なんです
御所の内裏に天皇と上皇を拘束し
上皇の側近であった藤原信西(ふじわらのしんぜい)を襲撃し
自害にまで追い込むんですよ。
その後、知らせを聞き、京に戻った清盛は
天皇と上皇を奪還し、義朝を追討する勅旨を受けます。
結果的に義朝は清盛軍と六条河原で戦い
敗走する事となったんですね~
その敗走途中の場所にあったのが
この𥒎観音寺のある場所だったと言われています。
※平治の乱について詳しくは、総神社の記事をご覧ください。
少し前置きが長くなりましたけれど
レポートしていきましょう♪
ここ𥒎観音寺は真言宗のお寺で
山号を真山と言います。
国道367号線(鯖街道・京都から滋賀や福井へ抜ける道)の通り沿いに
あるんですけれど
東側は川(高野川)で反対の西側は山なんですよ。
車で見てみると断崖絶壁のような
山肌が見えます
直ぐ後は急な坂道になっていました。
そんな断崖絶壁のような場所に
創建されたのが𥒎観音寺なんですけれど
これにはワケがあるんですね。
先ほど、義朝が敗走するまでの
エピソードをご紹介しましたけれど
行き先は東国、ルートは
この八瀬を抜けて、近江(おうみ・現在の滋賀県)に
出るつもりだったんです。
けれどその途中で、比叡山の僧兵達から
落ち武者狩りに合い
崖から馬ごと真っ逆さまに
高野川に転落してしまったと言われています
しかし崖から転落したのに
義朝は怪我1つ負っていませんでした!
凄い奇跡ですよね
義朝は
「崖から落ちて怪我1つしてないなんて・・・
これはきっと観音様が守ってくれたのに違いない!!!」
と言って、大きな岩に矢尻で観音様を彫り
源氏再興を祈願したと言われています。
もうお気付きかも知れませんけれど
その場所に建てられたお寺こそ
𥒎観音寺なんです
手水鉢です。
ちなみにお寺が作られたのは、最近の話で
1933年(昭和8年)八瀬村の人達が発願し、善湧上人が
義朝の矢尻で彫った観音菩薩をお祀りしたのが
始まりなんだそうですよ♪
だから崖にお寺があるんですね~
また𥒎観音寺は、義朝のエピソードから
『源家再興発願所』と言われ
観音様は崖の観音様とも呼ばれているそうですよ
こちらは本堂です。
本堂
本堂にはご本尊である𥒎観音大士が安置されています。
現在は、岩に彫った観音菩薩は
足場が悪く直接見に行くことが出来ないので
本堂からお参りする形になってましたよ。
こちらは弁財天です。
こちらは𥒎大龍王です。
ちなみにこの八瀬のある辺りは
秋になると紅葉がとても綺麗なので
1度、訪れてみてはいかがでしょうか
※ちかくには、『瑠璃の庭』で有名な瑠璃光院もあるんですよ。
そんな𥒎観音寺の場所はコチラ↓
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