今回は、幕末ゆかりの石碑を1つご紹介したいと思います。
それは・・・
伊東甲子太郎外数名殉難之跡
(いとうかしたろうほかすうめいじゅんなんのあと)です
この場所は、京都駅からも程近い
七条油小路(しちじょうあぶらのこうじ)近くにある
本光寺(ほんこうじ)の門前となっています。
ここで1867年11月18日に起こったとされるのが・・
『油小路事件(あぶらのこうじじけん)』なんですね!
※『油小路の変』とも言います。
これは、元・新撰組の参謀だった
伊東甲子太郎(いとうかしたろう)や、その他数名が
新撰組によって暗殺された事件です。
伊東甲子太郎外数名殉難之跡は
この事件を記す為に建てられた石碑なんですね。
まず最初に、伊東甲子太郎について簡単にご紹介させていただきます。
1835年に常陸国(ひたちのくに・現在の茨城県)に生まれた彼は
文武両道の人物だったようで
幼い頃から学問に長け、剣は北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の
名手だったそうです
※北辰一刀流といえば、坂本龍馬も習得したあの流派です。
そんな伊東甲子太郎は
1864年に、新撰組の藤堂平助(とうどうへいすけ)の仲介で
『新撰組』に入隊します。
※この時、門弟ら7人を率いて上洛したようです
隊内では、参謀兼文学師範を命じられ
人望も高かったようですが『尊皇』の考えから
局長の近藤らと意見が対立するようになりました
近藤ら新撰組とは
攘夷(じょうい・『夷敵=外国人』を打ち破る)という考えでは
一致していました。
しかし、新撰組は幕府側の組織だった事から
伊東の『幕府ではなく天皇による国政を行い、夷敵を打ち破る。』という
考えには反対だったんですね
結果的に伊東は
同士14名と共に御陵衛士(ごりょうえじ・高台寺党)を結成します。
近藤勇は伊東を高く評価していた事もあり
しばらくは様子を伺っていましたが
・隊を辞める事は死罪に値する(新撰組の局中法度)
・自身(近藤勇)の暗殺計画がある
という事を知り
伊東甲子太郎らを殺害する事を決意するんですね
こうして、起こったのが・・・
『油小路事件(1867年)』だったのです。
近藤は彼に酒を呑ませて、酔った所を襲撃する計画を立てます。
まずは、近藤や土方らが
伊東甲子太郎を近藤の妾の家に呼び寄せます。
※この家は、現場からほど近い場所にあったようです。
ここでたらふく酒を呑ませ
ちどり足で帰る伊東甲子太郎に、新撰組が襲いかかったと言われています。
ちなみに彼に止めを刺したのは
大石鍬次郎(おおいしくわじろう)という隊員だそうで
槍で喉を突いて殺害したと言われています
享年33歳でした。
※大石鍬次郎は、別名『新撰組の人斬り鍬次郎』と言われ、新撰組では、暗殺を主とした任務を任されていたようです。
新撰組は、伊東甲子太郎の殺害に加え
彼の死体を七条油小路(本光寺から100メートルほど北上した交差点)まで移動させ
これをエサにして、藤堂平助ら御陵衛士をおびき寄せ
四方八方から襲い掛かり、彼らを抹殺したと言われています
※確かな数字ははっきりしていませんが、この時、少なくとも伊東甲子太郎、藤堂平助、服部武雄(はっとりたけお)、毛内有之助(もうないありのすけ)がここで命を落としたと言われています。
この事により
御陵衛士は事実上、解散したそうですよ
ちなみに、伊東甲子太郎は襲撃された際
本光寺の門前にあった石塔に
もたれかかるような状態で絶命したようです。
この石塔は、現在も
本光寺の境内で見学する事が出来るみたいなので
気になる方は一度訪ねてみてはいかがでしょうか?
そんな伊東甲子太郎外数名殉難之跡の場所はコチラ↓