今回は、歴史上の人物の中でも
人気の『源義経』にまつわる石碑を
1つご紹介させて頂きます
それが・・・
源義経奥州首途之地
(みなもとのよしつねおうしゅうかどでのち)です!!
こちらの石碑は
京都市上京区(京都御所を含む、市の中心にある区)に建つ
首途八幡宮(かどではちまんぐう)の境内にあります。
義経のイメージと言えば・・・
小さいころは牛若丸と呼ばれ
弁慶との戦いの逸話が残されています
大人になると、悲劇のヒーローとして描かれ
平家を滅ぼす活躍を見せるも
最後は兄の頼朝に追われる身となり
31歳という若さで自害という・・
なんとも悲しい最後を遂げるんですね。
※義経について詳しくは、源義経ゆかりの地巡りの記事をご覧下さい。
ちなみに『判官贔屓(ほうがんびいき)』という言葉も
彼に同情を寄せた事から生まれた言葉なんですよ
※判官贔屓とは、弱者に対しえこひいきしてしまう心理現象です。判官とは義経の役職から取られた呼び名だそうですよ。
さて!そんな義経にまつわる場所
『源義経奥州首途之地』とは
彼が16歳の時
金売吉次(かねうりきちじ)に連れられ奥州へ旅立つ際に
旅の安全を祈願し、参拝したと伝えられている場所です。
参拝したのは、この石碑のある首途八幡宮で
当時は内野八幡宮(うちのはちまんぐう)と呼ばれていたそうですよ
でも、どうしてこの神社に参拝したのでしょう?
その理由を説明する前に・・
金売吉次なる人物について簡単にお話したいと思います。
彼は、義経が足を運ぶ事となった奥州の人間です
ちなみに、奥州とは陸奥国(むつのくに)の事で
当時は東北地方一帯をそう呼んでいました。
金売吉次は『平治物語』『源平盛衰記』『義経記』などの軍記物語にて
その名が出てきますが
謎が多く、一説には・・・
創作上の人物なのではないか?とも言われています
そんな金売吉次が何故京都にいたのかといいますと
それは金のブローカーをしていたからなんですね
東北は当時、金の産出地として知られていて
金売吉次は奥州で採れた金を京都に持ち込んで
商売をしていたようです。
なので、京都にも邸宅を構えていたんですね。
その邸宅近くにあった神社というのが
内野八幡宮(現在の首途八幡宮)だったのです!
なので、義経は彼に連れられ
ここで参拝したのだと思われますっ
※こうして旅の首途(出発)を祈願した事から、内野八幡宮は、後に首途八幡宮と名を改めました。現在も、旅の安全を祈願する参拝者が訪れる神社として知られています。
ちなみに、義経は京都を離れた理由についても
明確な事は分からないそうですが
一般的には、平氏からの難を逃れる為や
源氏の血を絶やさぬ事などが
奥州へ旅立った理由だと言われています
こうして金売吉次の手引きにより
藤原秀衡(ふじわらのひでひら・奥州藤原氏)のもとに
向かったんですね~!
※雍州府志(ようしゅうふし・江戸時代初期の地誌)にも藤原秀衡の名前は登場しています。藤原秀衡と京都には、繋がりがあったようで、首途八幡宮からも程近い大報恩寺(だいほうおんじ・千本釈迦堂)の社殿も彼が寄進したと言われているんですよ。
という事で、以上のようなお話から
義経の旅立ちから830年後の2004年に
首途八幡宮にこのような石碑が建てられました
そんな源義経奥州首途之地の石碑が建つ場所はコチラ↓