今回ご紹介するのは、京都御苑(きょうとぎょえん)内にある神社・・・
宗像神社(むなかたじんじゃ)です
まず最初に『京都御苑』について間単にご説明しますと
現在は公園として市民に開放されていますが
江戸時代までは、200もの公家の邸宅が建っていた場所だったんですね。
しかし明治維新後、天皇と供に多くの公家が
京都を離れる事となり、屋敷が取り壊されました。
今回ご紹介する宗像神社は
そんな公家の邸宅内に建てられた社を起源とする神社
なんですよっ
では、早速ご紹介させていただきます
皆さんも気になる所だと思いますけど
・・一体誰の邸宅内に建てられたのかと言いますと
藤原北家(ふじわらほっけ)出身で
平安時代初期の公家・藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)の邸宅の鎮守社として建てられたんですね~。
正面鳥居をくぐると、すぐ右手には花山稲荷社(かざんいなりしゃ)があります。稲荷神で有名な宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が祀られています。
ちなみに、この藤原冬嗣とはどんな人なのかと言いますと
810年に起こった『薬子の変(くすこのへん)』で活躍した人物として知られています。
この事件は
都が平安京に遷都されたにも関わらず
先代の天皇であった平城天皇(へいぜいてんのう)や
藤原薬子(ふじわらのくすこ)によって
再び奈良(平城京)に都を遷都させようとした政変です。
この時、藤原冬嗣は時の天皇であった嵯峨天皇や
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)らと協力し
平安京を見事に守ったんですね
※薬子の変について詳しくは市比賣神社の記事をご覧下さい。
こちらは参道左手にある京都観光神社です。現代風の名前が付いてるなぁと思って調べてみると、こちらは1969年に、観光業者の発案によって建てられたそうです。交通安全のご利益がある神社で、祭神には道祖神(どうそしん)で知られる猿田彦神(さるたひこのかみ)を祀っています。猿田彦神について詳しくは、道祖神社の記事をご覧下さい。
参道を更に進むと舞殿がありました。右手に少し写っているのは、御所より拝領した左近の桜だそうです。
ちなみに、藤原冬嗣が邸宅内に社を構えたのは
『薬子の変』よりも15年前の795年です。
筑前国(ちくぜんのくに・現在の福岡県)の
宗像大社(むなかたたいしゃ)より
宗像三女神(むなかたさんじょしん)を勧請し、祀ったと言われているんですね。
創建された理由については諸説あり
桓武天皇(かんむてんのう・平安京に都を遷都した天皇)の勅命によると
言われている他にも
藤原冬嗣自身が神託を受けたといった説があるそうです。
そんな宗像三女神とは
宗像大社に祀られている三柱の女神の総称の事なんですね
・多岐理毘売命(たぎりひめのみこと)
・市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)
・多岐津比売命(たぎつひめのみこと)
総本社の宗像大社は、筑前国にあった事から
宗像三女神は玄界灘(げんかいなだ・九州北西部の海域)の神として崇拝され
海上交通の守護神として崇められています
※この他『清浄・潔白』の象徴とも言われている『美の神様』です。詳しくは美容にご利益のある神社仏閣巡りの記事や御前社の記事をご覧下さい。
絵馬です。琵琶が描かれていますけれど、これは七福神の1人『弁財天』が持っているものなんですね。祭神の市杵島比売命は弁財天と同一視されている事から琵琶の描かれた絵馬があるのでしょう。
ちなみに、藤原冬嗣の邸宅は
その後『小一条院(こいちじょういん)』と呼ばれました
第56代天皇・清和天皇(せいわてんのう)は、その小一条院で誕生したと言われています。
※生母は藤原冬嗣の孫娘である藤原明子(ふじわらのあきらけいこ)だそうです
その後、邸宅は花山院家(かざんいんけ・藤原北家の流れを汲む家格)に相続され
幕末まで続く事となりました
その中で、邸宅の社(現在の宗像神社)には
天岩戸開神(あまのいわとわけのかみ)と倉稲魂神が、後に合祀されたそうです。
本殿横にも摂社が横一列で並んでいます。こちらは『少将井社(しょうしょうのいしゃ)』です。
その隣は『繁栄稲荷社(はんえいいなりしゃ)』になります。
一番左の社は『琴平神社(ことひらじんじゃ)』です。
社殿はその後、何度か火災で焼失した事もあるようですが
その度に再建されたそうで、現在の社殿は江戸時代後期のものだと言われています。
本殿向かいにある多羅葉(たらよう)の樹です。昔はこの葉を使い、文書を残したと言われています。『葉書』と言う言葉の語源にもなったそうですよ。
こうして明治期になり
花山院家の邸宅が取り壊された後も、社殿だけはそのまま現在地に残り
今に伝わるというワケなんですね~
という事で今回は宗像神社を紹介させていただきました
場所はコチラ↓
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