今回ご紹介するのは神社は京都府亀岡市にある・・・

篠村八幡宮

篠村八幡宮(しのむらはちまんぐう)です

※亀岡市は京都市の北西に位置する市です。


この地は、室町幕府初代将軍である

足利尊氏(あしかがたかうじ)の倒幕挙兵地として知られています!

時は鎌倉時代末期

元寇(げんこう・蒙古襲来)により

武士は勝ったにもかかわらず、十分な恩賞が与えられず

幕府に対して不満が高まっていた頃です。

※元寇は、国内の争いでなかった為、勝っても土地が分け与えられなかったのです。


こうした状況の中、倒幕を画策したのが

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)でした。

1324年『正中の変(しょうちゅうのへん)』

倒幕計画が事前に発覚し、朝廷の人間が処分された事件。

1331年『元弘の変(げんこうのへん)』

同様に倒幕計画が発覚してしまい

結果的に幕府軍に捕らえられます。

結果、後醍醐天皇は隠岐島に流されたんですね~。


拝殿(舞殿)

鳥居をくぐり、石畳の参道を歩くとこちらの拝殿(舞殿)が見えます。1923年に再建されたもので、昭和初期まではここで謡曲や舞の奉納なども行なっていたそうですよ。


篠村八幡宮の由緒書き

篠村八幡宮の由緒書きです。


しかし、後醍醐天皇の計画が失敗に終わりますが

楠木正成らを中心とした悪党(あくとう)と呼ばれる幕府に恭順しない新興の武士が

倒幕の企てを止める事はなかったんですね

つまり、鎌倉幕府は

これで治まると思ってたのに・・全然治まらない!(汗)


その後、後醍醐天皇は隠岐を脱出すると

鳥取県の山に篭城する事となります

この時、沈静化を図る為に

鎌倉幕府から差し向けられたのが・・・・


足利尊氏でした!

しかし、足利尊氏自身も幕府に対して不満があった事から

後醍醐天皇側(倒幕軍)に付き倒幕に力を貸す事となりました。


こうした経緯があり

1333年、この篠村八幡宮に

足利尊氏は1万とも2万とも言われる兵を集め挙兵し

倒幕の必勝祈願を行なったんですね~。

※篠村は足利氏ゆかりの地であり、彼の生母(上杉清子・うえすぎきよこ)の実家がこの辺りにあった事が、挙兵地になった理由の1つにあるようです。


旗立楊

旗立楊(はたたてやなぎ)

足利尊氏はこの楊(やなぎ・柳とは別の品種の木)に

足利家の家紋(二引両・にひきりょう)の入った白い旗を立て

挙兵に賛同する武将らの到着を待ったと言われています。

※現在の楊は、当時から数えて6~7代目にあたるそうですよ。


こうして後醍醐天皇側についた足利尊氏らは

六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が朝廷を監視する目的で置かれた組織)を

攻め落とします。

これと同時に

新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉幕府に攻め入り見事勝利。

こうして、とうとう倒幕を成し遂げたのですっ。

本殿

ここで篠村八幡宮の起源についても説明しますと

平安時代後期の1071年

後三条天皇(ごさんじょうてんのう)の勅願により

源頼義(みなもとのよりよし)が

誉田八幡宮(こんだはちまんぐう・大阪府)から八幡神を勧請し

創建したと言われる神社です。

※後三条天皇は藤原氏を外祖父(がいそふ)に持たない天皇で、藤原氏の排除に取り組んだ事で知られます。詳しくは、白河天皇陵(成菩提院陵)の記事をご覧下さい。


八幡神とは

第15代天皇の応神天皇(おうじんてんのう)と

母親である神功皇后(じんぐうこうごう)

父親である仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の事を指し

多くの八幡宮ではこの三柱を祭神として祀っているんですね。

※八幡宮や祭神について、詳しくは京の八幡宮巡りの記事をご覧下さい。


足利高氏旗あげの地

本殿横には、足利高氏旗あげの地と書かれた石碑もありました。


五角絵馬

正五角形の絵馬、五角絵馬です。


ちなみに、足利尊氏は、ここに兵を集めただけでなく

出陣を前に戦勝祈願を行い

願文や鏑矢(かぶらや)を奉納したと言われています

矢塚

鏑矢とは邪気を祓う矢と言われ、合戦開始の合図などにも用いられる矢です。

※矢の先端に蟇目鏑(ひきめかぶら)という中が空洞になった物が取り付けられています。矢を放つと「ポォーー」という独特の音がなるんですよ。


これを足利尊氏が奉納すると、続いて

弟の直義(ただよし)や駆けつけた武将達も次々に鏑矢を奉納し

あっという間に鏑矢が、うずたかく積まれたといいます。

こうした事から建てられたのが

こちらの矢塚なんですね

祖霊

祖霊社です。歴代の神職や、戦争で亡くなった戦没者が合祀されています。

その後、篠村を出陣した一行は

六波羅探題に攻め入り、倒幕を成し遂げます。


皆さんもご存知の通り

その後、後醍醐天皇によって新政権が確立され

天皇親政(てんのうしんせい・建武の新政)が

行われますが

武士が命をかけて勝ち取った政権にも関わらず

後醍醐天皇は、重要なポストを武士に与えなかったんですね。


恩賞も、武士よりも公家らに多く与え

領地なども一旦没収し、後醍醐天皇が取り仕切る事となりました。

こうした事から、武士達の不満が高まったんですね。

※中には後醍醐天皇の暗殺計画などもあったようです。


当時の様子を

二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)が

こう伝えています・・

『此比都ニハヤル物。夜討強盗謀綸旨。召人早馬虚騒動・・・』

最近都でよく見かける事を書いてみると

夜中になると寝込みを襲った強盗が起き

喧嘩や騒動で早馬が街中を駆け回る始末。


生首もあちらこちらに見かけるようになりました。

・・といった事が書かれています

※建武の新政当時の混乱する様子を批判(風刺)した文書なんですね。


乾疫神社

境内になる乾疫神社(いぬいえきじんじゃ)は、日本最古の疫神社とも言われ、疫病などの災いを祓う為に建てられたようです。

皆、世の中がちっとも良くなっていないと感じていたんですね。

そのような不穏な空気が流れる中

後醍醐天皇より足利尊氏は指示を受け

東国の乱を鎮める為に、出陣する事となりました。


しかし、武士達は皆

こんな後醍醐天皇のいう事ばっかり聞いていても

幸せになれない・・・

そんな思いが1つとなり

リーダーであった足利尊氏を担ぎ上げる形で

都を出た足利軍はそのまま挙兵!


部下達の熱い思いに応えるように

足利尊氏は、後醍醐天皇と戦う事となります。

※このあたりの詳しい解説は、足利尊氏ゆかりの地巡りをご覧下さい。


ちなみに、足利尊氏は

後醍醐天皇との戦いで一度は惨敗しますが

必勝祈願を行なう為

再び篠村八幡宮を訪れ参拝したと言われています。


足利尊氏は・・

どうしても勝ちたい。

それなら、やっぱりあそこでもう一度、必勝祈願しなくてはっ!

っといった気持ちだったのではないでしょうか?


こうして結果的に

後醍醐天皇との戦いに勝利し、彼を幽閉した足利尊氏は

光明天皇から征夷大将軍に任命され

1338年に室町幕府を開く事となったんですね。


以後、勝利に導いた篠村八幡宮も栄え

室町時代には30もの社殿が並んでいたと言われているんですよ

その後、後醍醐天皇は

吉野に「南朝」を作っちゃうんですけどね。

※この事がきっかけで、以後60年余り、南朝・北朝という2つの朝廷が生まれました。これを南北朝時代と言います。


こうして

2人は戦を交えた時期もありましたが

1339年に後醍醐天皇が崩御すると

足利尊氏は彼の為に天龍寺を建て、供養したんですね

天龍寺については、天龍寺 その1、天龍寺 その2の記事をご覧下さい。


ちなみに、天龍寺を建設する際の費用は

元との貿易にて賄ったそうで

その貿易に使われていた『天龍寺船(てんりゅうじぶね)』から

名前が取られたそうですよ


そんな篠村八幡宮の場所はコチラ↓


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