こんにちは京子です!
今回ご紹介するのは
足利尊氏ゆかりの地巡りです!
室町幕府の初代将軍で知られる
足利尊氏にスポットを当て
彼のゆかりの地を紹介したいと思います
・安国寺(あんこくじ)
京都府綾部市安国寺町寺ノ段1
安国寺のある丹波綾部市は、足利尊氏出生の地と呼ばれ
後に、尊氏や弟の直義(ただよし)によって
安国寺が建立されました
※京都の他にも全国60箇所以上に建てられた安国寺は、彼らが戦死者の霊を弔う為に建てたお寺だと言われています。
足利尊氏の出生については
栃木県足利市であるという説もあるようですが
彼の生母(上杉清子・うえすぎきよこ)の実家がある
丹波国に生まれた説が有力だと言われています。
※この事から境内には尊氏や清子のお墓があるそうです
ちなみに、尊氏の父『貞氏(さだうじ)』は
鎌倉幕府の御家人でした。
当時の、鎌倉幕府はどういった状態だったかと言いますと
武士達は
元寇(げんこう・蒙古襲来)で勝ったにもかかわらず
恩賞が与えてもらえず(国内の争いでなかった為、勝っても土地が分け与えられなかった。)
北条家に対して不満が高まっていたようです。
そんな時
鎌倉幕府の倒幕を画策したのが
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)です。
1324年の正中の変(しょうちゅうのへん・倒幕計画が事前に発覚し、朝廷の人間が処分された事件。)
に続き
1331年には元弘の乱(げんこうのらん)が起こし
いよいよ討幕軍と鎌倉幕府が正面衝突します。
その際に
幕府から差し向けられたのが尊氏(当時27歳)でした。
1度目は後醍醐天皇と戦った尊氏でしたが
尊氏自身も幕府に不満があった事から
結果的に、後醍醐天皇側(討幕軍)に付き
鎌倉幕府を滅亡へと追い込みました。
以後、政権を取り戻した後醍醐天皇によって
天皇親政(てんのうしんせい・建武の新政)が行われるようになったのですが
武士によって勝ち取った政権にも関わらず
後醍醐天皇は
重要なポストを武士に与えなかったのです
その結果、建武の新政から約2年
各地で武士の不満が高まる中
武家の棟梁であった足利尊氏が
反旗をひる返し
後醍醐天皇と戦う事となります。
・東寺(とうじ)
京都府京都市南区九条町1
その戦いの中で、1度は九州に敗走した尊氏でしたが
武力を建て直し
後醍醐天皇と対立していた光明天皇(こうめいてんのう)を立て
再び京都へ攻め込み、東寺に本陣を置いたんですね。
※後醍醐天皇VS足利尊氏の戦いについて、詳しくは天龍寺 その1の記事をご覧下さい。
当時の梵鐘は、尊氏の寄進によるものだと言われています。
この東寺には
後醍醐天皇側の武士『新田義貞(にったよしさだ)』が
尊氏を討つ為に攻め入ったと言われ
激しい戦闘が繰り広げられたそうです。
結果的に勝負は尊氏の勝ちだったようで
新田義貞は坂本(滋賀県)に敗走したと伝わります
こうして結果的に
後醍醐天皇を幽閉した尊氏は
光明天皇から征夷大将軍に任命され
1338年に室町幕府を開きます
・天龍寺(てんりゅうじ)
京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
後醍醐天皇は、なおも諦めず吉野(奈良)へ移り
南朝を開く事となりますが、1339年に崩御。
※この事がきっかけで、以後60年余り、南朝・北朝という2つの朝廷が生まれました。これを南北朝時代と言います。
そして尊氏は後醍醐天皇を弔う為に
この天龍寺を建立しました。
建設費は、元との貿易にて賄ったそうで
その貿易に使われていた『天龍寺船(てんりゅうじぶね)』
から名前が取られたようです
※天龍寺については、天龍寺 その1、天龍寺 その2の記事をご覧下さい。
・等持院(とうじいん)
京都府京都市北区等持院北町63
その後、1341年に足利家の菩提寺として中興したのが
こちらの等持院です。
ちなみに、境内の霊光殿には
歴代の室町幕府将軍の木像が安置されているんですよ
※足利義量(あしかがよしかず)と足利義栄(あしかがよしひで)は除く。
1358年に尊氏が死去した際に
彼の法名から『等持院』の名が付けられたそうです
・足利尊氏邸・等持寺跡(あしかがたかうじてい とうじじあと)
京都府中京区御池通高倉上ル東側
ちなみに、尊氏は幕府を開いた際に
『三条坊門第(さんじょうぼうもんだい)』と呼ばれる
大きな屋敷を構えたそうで
その跡地には、現在石碑が建っています。
先ほどご紹介した等持院もかつてはこのあたりに
あったそうで、後に
現在の等持院と合併される事になったそうですよ
という事で今回は足利尊氏ゆかりの地を紹介させていただきましたっ!
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