メモ2014-02-05
テーマ:史跡

足利尊氏邸・等持寺跡

今回は、室町時代ゆかりの石碑を1つ紹介したいと思います

それは・・・

足利尊氏邸・等持寺跡

足利尊氏邸(あしかがたかうじてい)・等持寺跡(とうじじあと)です

※京都市中京区高倉通御池上ル東側に建っています。


足利尊氏とは

何を隠そうあの室町幕府を作った初代将軍ですよね。


そんな尊氏がこの地に建てた邸宅は

『三条坊門第(さんじょうぼうもんだい)』と呼ばれ

とても大きかったと言われています


ちなみに、屋敷の大きさは諸説あるんですけれど

南北250メートル、東西120メートルほどあったと言われています。

※二条大路、三条坊門小路(御池通)、万里小路(柳馬場通)、高倉小路に囲まれていたそうです。


つまり敷地面積が約30000平方メートル(9075坪)もある

大豪邸だったんですね!

のちにこの場所を室町幕府発祥の地と呼んだそうですよ


>室町幕府発祥の地・説明板

室町幕府発祥の地と書かれた説明文です。


そこで、尊氏について少し触れておきますと

時代によって評価が分かれる人物として有名です。


どういうことなのかといいますと

明治から戦前にかけて

彼は、逆賊といったイメージがあったんですね~


その理由は

後醍醐天皇(ごだいごてんのう・第96代天皇)を退けて

室町幕府を作ったというところにあります


後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうと倒幕の挙兵を挙げ

元弘の乱(げんこうのらん・1331年)で勝利したのち

天皇自らが政務を行うという

『建武の親政』を行います。


平清盛(たいらのきよもり)以降

長いこと武士が実権を握ってきていたので

悲願だったと思います


しかし、この建武の親政は

最初から問題が噴出し

長くは持ちませんでした。


その問題の1つに恩賞問題があります!

鎌倉幕府を倒す倒幕運動に呼応した

武士達への恩賞が少なかったというわけなんですね。


なんと実際には戦っていない公家達のほうが

恩賞が多かったと言われています。


武士達は命を懸けて戦ったのに

どうしてこれだけなんだといった

思いだったのでしょう。


彼らは不満を募らせ

その中心に担ぎ上げられたのが

源氏の棟梁であった尊氏だったんですね


結果的に後醍醐天皇と戦って彼を幽閉すると

尊氏は光明天皇(こうみょうてんのう・北朝第2代天皇)から

征夷大将軍に任命され

1338年に室町幕府を開きます。


こうした経緯から

「尊氏は天皇にはむかった逆賊である」

といった意見が長く言われていたんですよ。


しかし、時代は変わり

戦後、彼の評価は変わってきます。

それまでの国家主義的な歴史観が否定されたからなんです


今では尊氏をただ単純に

逆賊と評価する人はいなくなったと言われています。

※足利尊氏について詳しくは足利尊氏ゆかりの地巡りの記事をご覧下さい。


話を戻しまして

この尊氏の邸宅はその後

等持院

等持寺に改められたそうですよ。


御所八幡宮

また近くに御所八幡宮がありますが

こちらは尊氏邸・等持寺の鎮護社であったそうです。

等持院について詳しくは、等持院の記事をご覧下さい。御所八幡宮について詳しくは、御所八幡宮の記事をご覧下さい。


最後に尊氏のエピソードとして

こんな話をご紹介します


源氏の棟梁の尊氏ですが

彼には変わった癖があり

なんとピンチにたった際

『笑顔を振りまく!』

といったことが文献によって伝わっているんですね。


え?

そんな少年誌的、アニキな人だったの?

と思われる方もいるかもしれませんね


夢窓国師(むそうこくし・鎌倉・室町時代の僧)が

「第一に、御心が強く、合戦の際に身命を捨てたまうべきところにたびたび臨んだが、笑みを含んで畏怖の色が無い。」

と『梅松論(ばいしょうろん)』の中で評価しているんだとか。

※梅松論とは、南北朝時代に書かれた筆者不明の軍記物語です。


尊氏はピンチになって青ざめるのではなく

逆に笑っていたなんて・・・

しかもこの尊氏、慈悲深く、人に恨まれることがなかったみたいですよ。


という事で今回は、利尊氏邸・等持寺跡をご紹介させていただきました。

そんな足利尊氏邸・等持寺跡の場所はコチラ↓


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