こんにちは京子です。
本日ご紹介するのは、阿弥陀寺(あみだじ)で行われた信長忌(のぶながき)です。
※阿弥陀寺の本堂は普段非公開ですがこの日に合わせて公開されます。
2012年6月2日である今日は織田信長(おだのぶなが)の431回忌になります
こちらは織田信長のお墓です。
さて織田信長という人物は一体どのような人物だったのかと申しますと
戦国時代の覇者と言えば
わかりやすいのではないでしょうか
武力だけでなく、経済政策においても優れた能力があり
『楽市楽座(らくいちらくざ)』を制定します。
楽市楽座とは
誰でも商売を出来るようにしました。
それまで商売というのは限られた人しかする事が出来なかったんですね。
また、関税を撤廃します。
この当時、国を越える際に、関税を納めなければなりませんでした。
簡単に言ったら高速道路を使って移動する際に
料金所でお金を払うような感覚です
※詳しくは総見院の記事をご覧下さい。
ではさっそくレポートしていきましょう
午前10時に阿弥陀寺に着いた京子
阿弥陀寺ではすでに準備が整っていました。
血縁者やゆかりのある人たちが見守る中
住職さんによるお経があげられ
御焼香をあげられました。
一般の人も御焼香をあげる事が出来ますので
来年は信長の432回忌に手を合わせに行かれてはいかがでしょうか
京子も手を合わせましたよ。
その後、御焼香が終わると住職さんによる
阿弥陀寺に伝わる信長の歴史についてお話をして下さいました
1582年に起きた本能寺の変の1番の謎と言えば
信長の遺体が見つからなかった事だと思います
阿弥陀寺の住職さんによりますと
明智光秀(あけちみつひで)が謀反を起こした時
清玉上人(せいぎょくしょうにん)は本能寺の裏道より入り、信長の首だけを抱え逃げ出したと言われています。
その後、阿弥陀寺にて供養をされたそうです
清玉上人とは阿弥陀寺を開山した人です。
信長の兄、織田信広(おだのぶひろ)のお墓です。
信長の兄である信広が三河と尾張(現在の愛知県)の間にある小豆坂(あずきざか)で戦をしていた時に、ある妊婦を見かけます。
その妊婦を介護するものの亡くなってしいましたが、薬師(現在の医者)曰く
お腹の赤子は生きているから、もし助かるのであれば
それが母親の本望であろうという事で摘出されました。
それが清玉上人です
この時の戦に信広は勝利し、縁起の良い子だという事から
織田家が引き取ったそうです。
その後、進路を決める歳になった時、武士になるか僧侶になるか、どちらの道を行くのか迫られ
僧侶の道になる事を選びます
その後、織田家の援助を受けながら阿弥陀寺を建て住職になります。
だからこそ阿弥陀寺は織田家縁のお寺なんですね~。
森蘭丸らのお墓です。
実は信長のお墓が京都にはもう1箇所あります。
総見院のお墓は秀吉が作ったもので
阿弥陀寺は清玉上人が作ったものです。
お墓が2つある理由はこんなエピソードからわかります。
本能寺の変で信長が亡くなった後、清玉上人によって阿弥陀寺で供養されました。
しかしそれからほどなくして、秀吉が清玉上人に信長の供養を執り行いと申し出たそうです。
つまり家臣である秀吉が信長の葬儀を行う事により
織田家や他の大名達に自分という存在をアピールしたかったというわけです
だからこそ清玉上人はもう丁重に供養をしたから必要ありませんと断ります。
断り続ける事3度
秀吉は違う手段で信長の供養をしようと思い立ちます。
片方は燃やして位牌として、もう片方は安置しました。
今日はお菓子を頂く事が出来ました。
織田木瓜(おだもっこう)をかたどったお菓子でしたよ
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