本日は藤森神社で行われた
藤森祭(ふじのもりまつり)の
神幸祭を取り上げたいと思います。
ちなみに藤森祭は毎年5月1日~5日に行われ
祭神『早良親王(さわらしんのう)』が
東征(とうせい・東北の討伐)の戦勝を
藤森神社に祈願した事により敵を滅ぼしたという故事から
甲冑の武者行列が出る事で有名なお祭り!
中でも馬上で魅せる高度な技(曲芸)を披露する
『駈馬神事(かけうましんじ)』は人気神事の1つです
そして、神幸祭(神輿巡行)は
氏子地区の安全や繁栄を祈願して、毎年5月5日に行われる神事です。
神幸祭で巡行する神輿は、江戸時代に氏子がその財力を結集させて造ったもので
京都において最も優雅な神輿として知られ、美術品としての価値も高いみたいですよ
さてさて、8時前に藤森神社に着いた京子
しばらくすると、『鳴りカン』を上下に振りながら担ぎ手が割拝殿に集まり
神輿に鳴りカンを取り付けていました。
ちなみに鳴りカンとは、神輿の一部でカシャンカシャンと音の出る部分です
そして8時になると、神輿関係者の方々による挨拶がなされ、いよいよ神輿の出発です
まずは宮本下之郷神輿が鳥居を抜けて氏子町へと出て行きます。
その後、女神輿、東福寺郷神輿、深草郷神輿も続いて氏子町へと出て行くかと思いきや、なぜか参道に待機・・・
あれれ、どうして氏子町へ出ていかないのー
と思っていたら太鼓や笛の音が境内の方から聞こえてくるじゃありませんか
そうなんです先ほどの3つの神輿は武者行列・鼓笛隊が来るのを待っていたのです。
そして、鼓笛隊の後に武者行列といわれる
朝渡(あさわたり)、皇馬(こんま)、七福神、払殿(ほって)が後に続きます。
朝渡(あさわたり)とは
早良親王が征夷大将軍として軍隊を引き連れ
東北で起きた乱を成敗する為に
藤森神社で戦勝祈願をした姿を再現したものです。
皇馬(こんま)とは
藤森祭の起源であると言われる深草祭にちなんだもので
清和天皇の命により、国の平和と天皇の長寿を祈る為に
御所に向かう姿を再現したものです。
払殿(ほって)とは
三韓征伐から凱旋した神功皇后の軍が
深草藤森にて、武具を納め、祭典を行った姿を再現したものです。
その後、武者行列・鼓笛隊と神輿は伏見稲荷に向かいます。
伏見稲荷に一番乗りの鼓笛隊
神輿では一番乗りの女神輿
10時頃に武者行列・鼓笛隊と宮本下之郷神輿以外の3基の神輿が伏見稲荷に到着します。
郷(ごう)とは、藤森祭の神輿の数え方です
その後、氏子町を回ってきた宮本下之郷神輿が11時20分頃に伏見稲荷に到着し
藤尾社と呼ばれる伏見稲荷の末社の前で祝詞が上げられます。
でも、なんで藤森神社のお祭りなのに
伏見稲荷に行くのってお思いの方もいらっしゃるんじゃないでしょうか
その理由は
もともと藤森神社のある深草と呼ばれる地域全体が藤森神社の境内だったと言われています。
しかしある時、伏見稲荷側から
「藁を置くための土地を貸して欲しい!」
と言われ
「まぁ、藁を置く場所ぐらいなら良いですよ。」
と了承したら
なんと、当時、伏見稲荷の本殿があった山頂から山の麓までを
藁で結んで、現在の伏見稲荷の境内である領域を囲ってしまったと言われています
その時以来、伏見稲荷の境内が決まったと言われていまして
藤森神社側が
「土地を返せ!」
と伏見稲荷側に言い
「今、神様おらへん」
と伏見稲荷側からの返事。
この様なやりとりが50年程前まで行われていたそうです。
つまり伏見稲荷に寄る理由は、土地を返して欲しいと言いに行く為だったんです
しかし現在では、この様なやりとりは無くなってしまったみたいです。
昔のやり取りが聞こえてきそうです
※この故事が本当にあったかどうかは、今となっては定かではありませんが、目の前にいた氏子町のおじいさんのお話によると、おじいさんの小学生くらいまではやっていたそうです。
その後、宮本下之郷神輿、女神輿、深草郷神輿、東福寺郷神輿の順番で
伏見稲荷を出発し、各神輿が氏子区域を18時頃まで練り歩きます。
※詳しくは『瀧尾神社』の記事をご覧下さい。
ちなみに神輿巡行では、ちまきが配られていたりもします
※藤森祭の期間中にのみ販売されている境内のちまきとは別の物です。
一方、藤森神社参道では13時頃から『駈馬神事』が行われます。
駈馬神事に付きましては、見所がたくさんありますので詳しくは藤森祭 2012 駈馬神事(藤森神社)をご覧下さい。
駈馬神事は13時と15時から1時間程行われます。
そして16時頃、氏子町を練り歩いていた武者行列・鼓笛隊が藤森神社へと戻り
18時頃に3基の神輿も戻ってきて今年の神幸祭は終了です。
そんな神幸祭が奉納された藤森神社の場所はコチラ↓
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