さて、本日は
幕末、薩摩藩に関する史跡をご紹介したいと思います。
それが・・・
薩摩藩邸址(二本松藩邸)です。
さて、まず始めに
京都において、薩摩藩邸があった場所は3つあるんですね。
1つ目が京都伏見の・・・
「伏見藩邸(ふしみはんてい)」
※写真は伏見藩邸址に建つ石碑です。
そして2つ目は・・・
京都御所から1キロほど南の「錦小路藩邸(にしきこうじはんてい)」
最後に3つ目が
今回ご紹介する・・・
「二本松藩邸(にほんまつはんてい)」なんですね♪
石碑は、ちょうど京都御所のすぐ北側で
同志社大学の西側門の側に建っています。
建てられたのは1862(文久二年)年。
ん!?・・・この年と言えば
(・∀・)ノ文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)の年です!
島津家(薩摩藩)が主導で行った『文久の改革』は
島津久光が、薩摩より京へ上がり
朝廷の勅許を得て行った改革です。
※文久の改革については大黒寺の記事をご覧下さい。
その年に、こちらの薩摩藩は建てられました。
どうやら錦小路藩邸が
手狭になったからという理由だそうです。
そういう事もあり、こちらの薩摩藩邸は
広さは、なななーんと5805坪(19000㎡)もあり
9棟の建物による巨大な敷地を有していたんです!
ちなみに、この場所で行われたのが・・・
坂本龍馬や中岡慎太郎の尽力により実現した
薩長同盟(さっちょうどうめい)ですよね。
※『薩長同盟』に関しては木屋町界隈の史跡 その1をご覧下さい。
ちなみに、その後こちらの薩摩藩邸は
どうなったのかと言いますと・・・
1875年には無くなり
新島襄(にいじまじょう)という人物により
同志社大学が建つ事となりました。
薩摩藩の西郷隆盛が
西南戦争で亡くなったのが1877年です。
こうしてみると
建物ひとつとっても、幕末から明治にかけての
時代の移り変わりを感じますね~。
そして、もうひとつご紹介したいのが
『薩藩戦死者墓』です。
場所は相国寺の東門を出て更に東へ進むと見えてきます。
こちらのお墓には
禁門の変(蛤御門の変)と、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)で
亡くなった72名の薩摩藩士が合葬されています。
※禁門の変については木屋町界隈の史跡 その1を、鳥羽・伏見の戦いに関しては城南宮 その2をご覧下さい。
今回ご紹介させていただいた2つは
距離も近いので
是非セットでご覧になってみてはいかがでしょうか?
薩摩藩邸址(二本松藩邸)はコチラ↓
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薩藩戦死者墓はコチラ↓
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伏見藩邸はコチラ↓
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