こんにちは京子です。
さて、本日ご紹介するお寺は・・・
高松神明神社(たかまつしんめいじんじゃ)です。
通称『神明さん(しんめいさん)』とも呼ばれている神社。
では、早速こま札を見てみましょう♪
こちらは、平安時代中期に
鎮守社として作られたそうです。
何の鎮守社かというと・・・
醍醐天皇の息子で、公家のひとりである
『源高明(みなもとのたかあきら)』
彼が7歳の時に、源(みなもと)の姓を賜ると同時に
なーんと見事な『高松殿(たかまつでん)』が造営されました
で、その御殿の造営にあたり
天照大神(あまてらすおおみかみ)を勧請し
鎮守社として生まれたのが・・・
高松神明神社だったんですね!
この地には『高松殿址』の石碑も建てられています。
場所は京都御苑からもほど近い場所になります。
さて、見事な高松殿があったんですけど
その後、二度に渡り焼失。。。
今度は、鳥羽天皇によって再建され
『高松内裏』と呼ばれました。
ここで新たな登場人物をご紹介しましょう。
その人こそが、日本一の大天狗と言われている
(・∀・)ノ後白河上皇(ごしらかわじょうこう)です!!!
平安時代末期、この高松内裏で
後白河天皇(後の上皇)が即位したんですね。
そんな後白河天皇が
思い出深い高松内裏を本拠地にして
起こした戦いが・・・
保元の乱(ほうげんのらん・1156年)です!!
これは、権力争いが原因なんですけれど
崇徳上皇(すとくじょうこう)と
彼の弟である後白河天皇の戦いです。
※上皇とは元天皇という意味です。
さて、鳥居をくぐると参道は一本道。
ちなみに、この向かって左手にあるのは『オガタマノキ』です。
招霊(おぎたま・死者の霊が降りてくる事)という言葉が
名前の由来だそうで
神社ではご神木としてオガタマノキが
植えられている事が多いみたいですよ。
さて、この時代・・・
いったい武士はどんなポジションなの!?
と、いうと
( ´Д`)単なる、貴族に使われる道具のような存在でした。
つまり、番犬のような扱いを受けていたのです。
公家たちからすると
「武士はただ、我々に言われるままに動いておればいい。」
って感じだったんです。
実際、公家たちと同じ建物に上がる事など
武士には出来なかったのです。
こちらは拝殿です。平安時代からこの地を守り続けているんですね。
さて、そんな『保元の乱』に
崇徳・後白河の2人はそれぞれ、源氏や平氏の武士を
駆り出しています。
そこに登場するのが
来年の大河ドラマで注目の集まる・・・
(・∀・)ノ平清盛(たいらのきよもり)や源義朝(みなもとのよしとも・頼朝の父)なんです!!
彼らは、後白河天皇チームに付き
この高松内裏(現在の高松神明神社)にある本拠地に集まり
崇徳上皇へ攻め込む事となったんです~♪
そう考えると、とても歴史的な場所ですね。
境内にある地蔵堂。
こちらには人気の戦国武将の一人である
『真田幸村』の念持仏である地蔵尊が祀られています。
『幸村の知恵の地蔵尊』とも呼ばれているんですね~
地蔵堂の土台部分になっている石をさすり
その手で子供の頭をなでると
知恵を授かると言われています。
真田幸村は、関ヶ原の戦いや、大阪の冬の陣でも
頭を使い、少ない戦力で戦った事で知られていますよ♪
六文銭の旗印でも有名ですよね。
さてさて、お話を保元の乱に戻しまして
戦いの結果はと言うと・・・
(・∀・)ノ後白河天皇の勝利。
後白河天皇は、崇徳上皇を島流しにしちゃいます。。
ここで、武士たち(平清盛や源義朝)は
何を感じたのかと言うと・・
「俺たち、武士の勝敗で政(まつりごと)が動いたんだ・・スゲェ!」
って事なんですね。
つまり
「なんだ武士の力で世の中動かせんじゃん!俺らで天下取れるよ!」
と思ったワケです。
武士達の争った結果が、世の中を変えたんだという事です。
この戦いがきっかけで、武士の力が大きくなり
後の武家政権が誕生するというワケなんですよ♪
そんな高松神明神社の場所はコチラ↓