こんにちは、京子です。
さて本日ご紹介するのは史跡です♪
幕末、維新志士のひとりである桂小五郎(かつらこごろう)!
彼の邸宅であった・・・
木戸孝允旧邸(きどたかよしきゅうてい)です。
長州藩出身で、維新の三傑にも数えられる桂小五郎。
※彼は後に木戸孝允と名を改めます。
では、今日はそんな彼の邸宅をご紹介しながら
長州藩の桂小五郎とは・・いったいどんな人物だったのかを
ご説明させていただきたいと思います♪
さて、彼がした事で一番の功績と言えば・・
版籍奉還(はんせきほうかん)!
そして
廃藩置県(はいはんちけん)!
この2つではないでしょうか~。
これにより、徳川幕府の作った封建制度を解体し、見事に中央集権国家を作り上げる事となるのです。
桂小五郎は1833年に、現在の山口県萩市に生まれます。
剣豪で有名だった桂小五郎。
彼が、師匠として尊敬していたのが吉田松陰(よしだしょういん)ですよね。
吉田松陰は「このままの日本ではダメだ。」と訴えていました。
さて、そんな桂小五郎は吉田松陰を失う事となったのが
・・・幕府のおこなった『安政の大獄』ですね!
※『安政の大獄』に関しては圓光寺の記事をご覧下さい。
これにより、桂小五郎は怒り
「今に見ておれ、徳川幕府よ!!!」と悔しい思いをしたようです。
元は五摂家のひとつである近衛家(このえけ)のお屋敷で、それを譲り受け一部がこうして残っているんですね。
木戸孝允は44歳でこの世を去りますが、その一週間ほど前に、明治天皇もお見舞いに訪れたそうですよ。
この当時、長州藩はどんな空気になっていたのかというと
もしかすると日本は外国人に乗っ取られるかもしれない・・
このままじゃいけないと
と、ピリピリしたムードが漂っていたのです。
そんな中で長州は外国船に対して砲撃をしたりしたんですね。
いわゆる攘夷を実行したのです。
※攘夷とは「夷敵=外国人」を打ち破るという思想の事です。
こちらは邸宅内部です。縁側をパシャリ。古き良き日本家屋って感じがしますよね~★
2階部分です。窓からは鴨川が見えますよ♪
その後、八月十八日の政変や池田屋事件、禁門の変などが起こり
長州藩は幕府や、薩摩藩らを強く憎むようになります!!
※『八月十八日の政変』に関しては梨木神社の記事を、『池田屋事件』に関しては木屋町界隈の史跡 その2をご覧下さい。
桂小五郎はこの時期に
次々と同士を失う事となるんですね。
池田屋事件では、長州藩の主要人物が次々に新撰組に殺され・・
禁門の変では、約400人もの同士が殺されます・・・(泣)
自害した人間も多数。。
完全に意気消沈した長州藩でしたけれど
この時期には、後の奥さんとなる京都の芸子である幾松(いくまつ)と出会っています
なかなか頼もしい女性なので、是非そのエピソードを木屋町界隈の史跡 その1で、ご覧下さい。
そして、もう一人忘れていけないのがこの人ですね・・・
そうです。
(・∀・)ノ坂本龍馬っ。
「幕府を倒すには、薩摩・長州、2つの藩が力を合わせなきゃいけないぜよー!!」
と、龍馬や中岡慎太郎の尽力により、薩長同盟が結ばれる事となるのです。
※『薩長同盟』に関しても木屋町界隈の史跡 その1をご覧下さい。
こちらは、達磨堂です。木戸孝允の息子、忠太郎の達磨コレクションが拝見できます。
ちなみにコチラが木戸忠太郎さんですね。
達磨堂の入り口には、なんとも言えない表情のだるまさん♪
よーく見ると、窓の形もちゃんとダルマの形をしてるんですよ。
これ以後は一気に政局が変わり
大政奉還(たいせいほうかん)が行われ、王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)が出され
明治新政府がスタートしたんですね★
※『大政奉還』に関しては二条城の記事をご覧下さい。
さて、ここで桂小五郎は西郷隆盛と一緒に
ひとつの国となるべく中央集権国家を作る為に
まずは、版籍奉還(はんせきほうかん)をします。
これまでは、
日本は300程の国に分かれていて、そこに殿様が住民や土地を支配していたのです。
そのスタイルを変革するのです!
版籍奉還では、まずは今までは殿様の持ち物であった
土地(版)や民(籍)を国に返す(奉還)という事から始めようとなったんですね♪
まずは、ひとつにまとめる事を始めたのです。
でも、そんなの、殿様からしたら
「いやだー!絶対イヤだー!」ってなりますよね?
だって自分のモノだったんだもん。。
そこで、明治維新の中心であった薩摩藩や、長州藩、土佐藩などが
先陣を切って版籍奉還を行った事によって、他の藩も続く形となりました
そして、更にその2年後、廃藩置県(はいはんちけん)が行われます!
藩自体を廃止し、府や県に統合し、そこに中央から派遣された人たちをトップに置いたんですね。
つまり、それまでの殿様ではなく、県知事を中央から派遣しました。
この版籍奉還と廃藩置県はドコがすごいのかって言うと・・・
こんな一大改革を、大きなトラブル(武力衝突)も無しに行う事に成功した事でしょう♪
屋根の部分にも、かわいいダルマさんがいらっしゃいますよ。
お堂の中には、『達磨図』が。明治~昭和初期の日本画家である下村観山(しもむらかんざん)の作品です。
一万点にも及ぶ、各地のだるま人形や玩具がコレクションされています。
終生は、西南戦争をしていた西郷を心配し「西郷、いいかげんにしないか」と
旧友を心配し続けていたといいます。
お墓は勤皇志士たちが多く眠る霊山護国神社にありますよ。
そんな木戸孝允旧邸の場所はコチラ↓