こんにちは京子ですっ。
さて、本日ご紹介するお寺は
阿弥陀寺です
以前にも一度、阿弥陀寺は取り上げていますけれど
どうして、今回再びご紹介させて頂く事になったのかと言いますと
年に一度、この日だけ堂内が公開になるからなんですね♪
では、本日・・6月2日は一体何の日でしょう??
おわかりですか?
そうです!
(・∀・)ノ織田信長の命日なんですねっ。
※それに加えて、今年は430回忌との事です。
そうなんです、信長の命日である6月2日に
こちらの阿弥陀寺にて「信長忌(のぶながき)」が行われました~!!
1582年(天正10年)6月2日、京都にて「本能寺の変」が起こります。
これによって、織田信長と、嫡男の信忠は自刀に追い込まれました。
家臣の一人である明智光秀(あけちみつひで)が謀反を起こした事件ですよね♪
信長忌では、お堂内で
住職さんによるお話を聞く事が出来たんですけど
これがなかなか面白いお話をされていたんですね~♪
定説では、明智光秀が13,000の軍勢を引き連れ本能寺を取り囲みます。
そこで信長は、最後まで弓や槍で明智軍に抵抗しますけれど
・・最後には燃え上がる本能寺で自害をするといったシーンはあまりにも有名ですよね。
しかーし!阿弥陀寺の住職さんは少し違う見解をされていました。
今日はそれを詳しくお話させていただきます♪
まず、この信長の最後は信長公記(しんちょうこうき)という
織田信長の一代記に基づいて語られているものですけれど
信長公記には、豊臣秀吉の手が加えられてるとおっしゃっていました
本能寺で最後まで戦ったのは
実は信長の影武者だったというんですね。
当時、明智軍の雑兵は信長の顔なんて分からないですし
本能寺の変は深夜に行われた為、人の顔の判別がつきにくかった事は予想出来ます。
明智軍に攻められてきた際、信長は
早々に、切腹の準備をしていたと言われています。
そして、ここで登場するのが
当時、阿弥陀寺の住職であった、清玉上人(せいぎょくしょうにん)!
織田家は代々、阿弥陀寺のお世話になっていたそうで
従軍の際にも、現地で出る死者の為に阿弥陀寺のお坊さんを一緒に連れて行ったと言われています。
ですので織田家の家臣であれば
誰でも、阿弥陀寺の清玉上人の事は皆知っていたんですね。
この事から本能寺の変の
一報も清玉上人にすぐに伝わる事となります。
提灯に織田家の木瓜紋を見つけました。
公開されていた本堂内には本尊である阿弥陀如来や、清玉上人、信長・信忠親子に、庶兄である信広の木像がありましたけれど、残念ながら撮影禁止との事でした。
さて、影武者にパフォーマンスをさせている間に
信長は切腹するんですけど
家臣が信長の死体を焼いたという話も実際は違うんじゃないかと
現住職さんはおっしゃっていて
当時の火力では人を一人完全に焼く事は不可能だと説明されていました。
この事から清玉上人は、信長の首だけをお寺に持って帰ったと言われています。
※実際、当時は頭さえなければ体だけで本人かどうか確認する事は不可能だったんですね。
この織田家、家系図を使って住職さんは説明されていましたよ。
本能寺の変で信長が使ったといわれる手槍。寺宝です。使ったのは影武者だったかもしれませんね。こちらは写真撮影OKだったのでばっちり撮りましたよ★
ちなみに、清玉上人の活躍はこれだけではありません!
明智光秀は
本能寺にて信長を攻め立て
二条城にいる信長の嫡男、信忠への攻撃をしていました。
では、光秀はいつ信長の死を知ったのか・・・?
首が無いんですから、いつ死んだかはすぐに分からなかったはずですよね?
その答えは、清玉上人は光秀の下を訪ねたからなんですね。
清玉上人が織田家がお世話になっているお寺の住職だった事は、もちろん光秀は知っています。
光秀は
織田家がお世話になっていた住職が
謀反を起こした自分のもとにやって来たという事で
信長は死んだんだな・・と理解したんですね。
清玉上人は「もう武装解除をしなさい」と光秀に伝えたと言われています。
そうです
つまり「アナタの目的はもう達したよ」と、いう事を意味しているんですね。
この時、本能寺の変により
京では多くの人間が死に数千人の兵が逃げ回っていたと言われています。
少しでも、被害を食い止めたい・・・この思いから清玉上人は明智光秀のもとを訪ねたと
説明されていましたよ♪
本能寺の変では「信長様!謀反でございまする!」と廊下を走っていた森蘭丸をはじめ、森家のお墓が境内には並んでいました。
もちろん、織田信長のお墓もありますよ。
信長、信忠親子のお墓で、織田家の方だと思うのですけれど、ご焼香を上げられてましたよ!
こちらは鐘楼になります。
さて、ちなみに信長の首はその後どうなったの?
というお話ですけれど
その後、秀吉の家臣が信長のお葬式をする為に
遺体を引き取りたいと清玉上人の元を訪ねたんですね。
しかし、清玉上人は信長の遺体を引渡さずにお断りしたそうです。
「お葬式はもうこちらでさせていただきました。改めてお葬式をするなら勝手にそっちでやって下さい。しかし遺体をお渡しする事は出来ませんよ」と。
※その為に総見院でのお葬式には、信長の木像を使ってされたと言われています。
これに怒ったのが秀吉~っ
そうなんです、つまりこの事から信長公記には秀吉の手が加えられ
清玉上人の話が出てこないというワケだったんです。
この事から阿弥陀寺は秀吉に疎まれていたと言います。
しかし、
後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の尽力により廃寺する事はなかったんですね。
その前代の正親町天皇(おおぎまちてんのう)は
当時、上洛した信長によって御所を建て直してもらったり、資金援助をしてくれたりといった
経緯があった為、天皇家では、織田家ゆかりの阿弥陀寺を守ったそうですよ~。
と、いう事で今日は
あの「本能寺の変」を違う目線で住職さんに語っていただいて
なんだかちょっぴり新鮮で、新たな発見のあった1日でした。
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