こんにちは京子です
今回ご紹介するのは京都市下京区
本塩竈町(もとしおがまちょう)にある
上徳寺(じょうとくじ)です。
上徳寺は山号を塩竈山(えんそうざん)という
浄土宗のお寺です
では、早速こま札を見てみましょう。
1603年に徳川家康の手によって作られますけれど
開基は誰なのかと言うと・・・
阿茶の局(あちゃのつぼね)です
家康の側室の一人でありながら、高い政治的思考能力と知能で徳川幕府の参謀を担ったといわれています。
彼女は、武田家の家臣の子として甲府に生まれます。
一度結婚しますけれど、夫は戦死。
その後、家康の目に止まり側室となりました。
武家の娘だった事もあり
気の強い女性であったと思われます
馬術、武術に優れ、鎧をつけて戦場に出て行ったなんていう逸話もあるそうですよ♪
山門をくぐると、右手には石碑があります。江戸時代の俳人「堀内雲鼓(ほりうちうんこ)」の詠んだ句だそうですよ。
正面にある本堂です。永観堂のものが移築されたという事です。中には阿弥陀如来像が安置されています。
本堂、左手には「身代り地蔵堂」があります。災難や病気の身代わりとなり守ってくれるというご利益があります。
家康は秀吉と戦った「小牧長久手の戦い」に
懐妊中の彼女を戦場に連れていくんですね
しかし、この時、家康との子を
流産してしまう結果に
結局、彼女は生涯を通じて家康の子を
産む事は出来ませんでした。
そんな彼女ですけれど
家康の多くの側室の中でも信頼度はバツグンだったようです
家康が残した遺言の中にも、その事がうかがえるんですね。
それは・・・
「阿茶の局よ!ワシが死んでも、仏門には入らずに息子の秀忠を補佐してやってくれ。」
という事なんですね。
※通常、正室や側室は旦那さんが亡くなれば、尼になって菩提を弔うものなんですよね。
つまり、家康は
俺が死んでも徳川家の為に尽力してくれ
と言いたかったんですね。
そんな彼女の一番の活躍と言えば・・・
大坂冬の陣、夏の陣(1614~15年)での出来事です。
戦において、豊臣方と徳川側は決着を付ける為に、何度も和睦を結ぶ協議が持たれました。
※和睦とは条件をつけて和解を結ぶ事。
戦場において、
豊臣方、徳川方、それぞれの代表者が介し、話し合いを持つ場。
その際に
徳川方の代表として、和睦に向かったのが・・・阿茶の局なんですね
彼女、側室なのにそんな事までしちゃってるんです♪
※銃弾が飛び交う戦場の中、鉄張りの籠で大坂城へ向かったなんていわれています。
気が強いだけでなく、政治的能力にも優れ、口も上手くて、なおかつ頭が切れる!
家康は、阿茶の局をこの重要な局面に和睦交渉に送り出したという事です。
うーん、頼りにされてますね♪
では、そんな阿茶の局のお話は一旦置いておいて
上徳寺を引き続き、ご紹介したいと思います。
本堂左手を進むと地蔵堂があります。
この上徳寺は
通称「世継地蔵(よつぎじぞう)」とも呼ばれているんですね。
世継地蔵
江戸時代から、
子授けや安産にご利益があるといわれていて
「京都の世継ぎさん」と言えば、この上徳寺なんです。
地蔵堂にびっしりとくくり付けられている絵馬には「子供が授かりますように」「無事に元気な赤ちゃんが生まれますように」との願いが書き込まれていました。
絵馬の他にも、願い事を書いた「よだれかけ」もくくり付けてあるんですよ♪
ちなみに絵馬のイラストは「ほおずき」です。
はがため地蔵堂。歯の健康を願います、つまり長寿祈願ですね。
水子地蔵です。水子とはつまり、胎内で死んでしまった子供の事です。供養が出来るという事でしょう。
まるで双子みたい♪水子といい、安産、子授けなど、赤ちゃんにまつわるものが境内には多いですね。
さて、さて。
阿茶の局は家康が没した後、どうしたのか
と言いますと
遺言通り、仏門に入らずに徳川の為に尽力する事となります
二代将軍である秀忠も、彼女に信頼を寄せていたんですね。
その証拠に
彼の娘である東福門院(とうふくもんいん)が
天皇家へ嫁ぐ際にも、阿茶の局を付き添わせ、入洛させるんですね。
徳川家と天皇家を結ぶ役目をサポートし
東福門院の母親代わりになりお世話したといわれています。
※その事から、東福門院の旦那さんである後水尾天皇より位を賜る事となりました。
境内奥の墓地にある「阿茶の局の墓」です。
そんな彼女も、秀忠が没し
役目を終え、阿茶の局は剃髪し出家します。
享年83歳。
これほどまでに徳川家の為に仕えた側室はいないんじゃないでしょうか
そんな阿茶の局が眠る上徳寺の場所はコチラ↓
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