こんにちは京子です
さて、本日ご紹介するのは・・・
折上稲荷神社(おりがみいなりじんじゃ)
幕末には、女官の間で流行った病気を鎮める為に
孝明天皇がこちらに、病気平癒を祈願し
「長命箸」を奉納された事から
女性守護のお稲荷さんとしても有名です
場所は、京都の山科に位置する事から「山科稲荷」や
「伏見稲荷奥の宮」とも呼ばれています。
※伏見稲荷の奥社という意味です。
正面の鳥居を潜り、しばらく歩くと左手には古墳と考えられている「稲荷塚」があります。
写真の左手の石碑には
中臣群集墳跡(なかとみぐんしゅうふんあと)と書かれているのがおわかりでしょうか
この折上稲荷神社もある山科という場所は
その昔・・・
中臣氏が支配していた土地だったんですね。
中臣氏と言えば
中臣鎌足(なかとみのかまたり)があまりにも有名です
※この中臣群集墳跡に、中臣鎌足の家があったとされています。
中臣鎌足は、なんといっても藤原氏の祖と言われていますよね。
なぜかと言うと
大織冠(だいしょくかん)という官位と供に
藤原姓を、天皇から授かったからなんです。
つまり、彼から藤原家が始まったというワケです。
以後、天皇家と藤原氏の繋がりが強くなりました
稲荷塚にはいくつかの摂社・末社があります。
こちらは三九郎稲荷(さんくろういなり)。
人が生きる上での三大苦労(つまり、さんくろう!?)を取り除いてくれるご利益があるそうです。
稲荷塚への道には、木のコブがありました。
これは「お稲荷さんの授け知恵」と呼ばれるものです。
人間の脳みそにそっくりな形をした木のコブは
図に沿って、伸ばしたい部分をさするといいそうですよ
こちらは、株・宝くじ・賭け事の神様である「寶大神(たからだいじん)」です。
「兵吉大神」です。多数の石碑が折上稲荷神社にはあるんですね。
では、
中臣鎌足に藤原姓を授けたのは誰かと言いますと・・・
天智天皇(てんじてんのう)です
天智天皇は
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)という名前でも知られていますよね。
中臣鎌足と中大兄皇子(天智天皇)は
主従関係にあるんですけど
この2人が中心となって行ったスゴい事と言えば
なんといっても
乙巳の変(いっしのへん)という暗殺劇です!!
当時、有力な豪族である蘇我氏が政治に多大な影響を与えていました。
蘇我氏の専横と呼ばれたりします。
聖徳太子以来の律令政権を目指した中大兄皇子たちにとって、蘇我氏は邪魔な存在だったと言われています。
そこで出会ったのが、中臣鎌足
※2人が蹴鞠の会で出会ったエピソードは有名ですよね。
中大兄皇子らが皇族たちと集まり蹴鞠をやってた中
彼が鞠を蹴った瞬間、靴まで飛んでいきました。
その飛んでいった靴を中臣鎌足が拾い
中大兄皇子に手渡したというエピソードがよく描かれています。
拝殿です。折上稲荷神社という名前は、「織上げ」に通じるという事で西陣の織物業者(西陣織)の信仰を受けていて、多くの西陣織を集蔵しているそうです。
向かって左は「春吉大明神」右は「三一朗爾」の石碑があります。
2人は強い結束で結ばれ
蘇我氏を排斥する為に立ち上がります。
そして、645年に蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺
ちなみに入鹿は、聖徳太子の息子を追いやった人物であります。
そして入鹿の暗殺が原因で
蘇我蝦夷(そがのえみし)は自宅に火を放ち自殺しました。
これが、乙巳の変です。
結果的に
彼らにより蘇我氏を追い出す事に成功
構造改革をし、律令制度を目指しました!!
これが、乙巳の変から始まった
一連の政治的政変「大化の改新」です。
つまり、天皇家と藤原家の強い繋がりのはじまりは
この乙巳の変がきっかけだったんです
ちなみに、中臣鎌足は昔は、鎌子(かまこ)と以前は名乗っていました。
現在では女性の名前に多い、「子」という字ですけど
小野妹子、蘇我馬子などなど
ずっと昔は、男性も使う漢字だったんですね~
そんな中臣群集墳跡でもある
折上稲荷神社の場所はコチラ↓
大きな地図で見る