こんにちは京子です
さて、本日は
祇園、東山にある建仁寺の境内にあります塔頭であり
あの、天下人3人に最も愛された
軍師、黒田官兵衛(くろだかんべえ)の息子である
黒田長政(くろだながまさ)の守護神「毘沙門天像」が公開中の
両足院(りょうそくいん)です
では早速、中へ入ってみたいと思います。
こちらは建仁寺の境内には
普段は非公開のお寺が多く両足院もその一つ
ちなみに、両足院の両足は仏の尊称のひとつのである
「両足尊」(二つの足をもつものの中で最も尊い者の意味)
から取られたんですね。
さて、黒田長政を語る前に、まずご説明しておきたいのが彼のお父さんである黒田官兵衛です!
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の
天下人3人から愛された軍師なんですね。
秀吉に天下を獲らせた戦国時代最強の軍師の一人、黒田官兵衛は「太閤さまの知恵袋」とも言われるほど、秀吉には特に頼られていたと言われています。
天下を納める事となった秀吉は
ある日、家臣たちの前でこう言います。
「わしがもし死んだら誰が天下を取ると思う?」
家臣たちは「やっぱり家康殿じゃないですか?」
と言いますけど
秀吉「わかっとらんなぁお前たち」
家臣「と、言いますと?では・・・どなたでしょうか?」
秀吉はこう言います。
「官兵衛じゃ、黒田官兵衛じゃ!!!!ワシに代わって天下を治めるにふさわしい男は黒田官兵衛ただ一人しかおらん。」
と言っていたと伝わっており
実際に、黒田官兵衛は秀吉の前で武功を幾つも上げますが
信じられないほど、少ない領地しか与えられなかった事は
秀吉自身、黒田官兵衛をもっとも買っていましたけれど
最も恐れていたからだとも言われています。
信長が本能寺で討たれた際も黒田官兵衛は動揺する秀吉に対して「秀吉様、天下がいよいよ巡ってきましたぞ」と言い放ち彼のアドバイスによって秀吉は急いで毛利軍と信長の死を隠し和睦を結び中国大返しを成功させたと言われているんですね。
さて、両足院の山門をくぐり境内の中に入ると
とっても綺麗に整備された参道がっ
左手には白砂、右手には松が並んでいます。
山門から入り
このまま真っ直ぐ歩くと、突き当たりには
唐門があるんですね~。
そして、左手には
庫裏(くり)があります。
こちらから、両足院の奥へとどんどん入っていきます
庫裏に上がり、方丈へと渡り廊下を進むと
素敵な坪庭を発見
閼伽井庭(あかいにわ)と言います。
奥に井戸が見えているのがおわかりでしょうか
閼伽(あか)とは、神仏にお供えする水の事で、その水をこの井戸で汲んだという事なのでしょう。
そして、方丈へ到着するとこちらの、方丈庭園がまず目に飛び込んできます
びっしり綺麗に苔が敷き詰められていますけど
先ほど唐門の裏手には
こちらの方丈庭園が広がっていたんですね
さて、さて
そんなすごい軍師である黒田官兵衛は
五奉行の一人である石田三成と対立し
秀吉からも怒らちゃいます。。
そして結果的にこの時、一度戦国時代の侍を辞めちゃうんですね。
黒田官兵衛はこう言います。
私はこれからひっそりとただ、「水の如く」秀吉様がどのような世を作られるのか見守る事にします。
と残し、自分の名前を
「如水(じょすい)」と改め出家するんですね。
そんな出家した黒田官兵衛ですけれど
秀吉の没後
再び戦国時代の表舞台に登場するんですね
秀吉が死に天下を巡り、世が乱れると予測していたのです。
そして、いよいよ
・・・関ヶ原の戦いが始まります
こちら、方丈の中に展示しているものは撮影禁止でしたけれど
どんなものが展示してあったのかと言いますと
江戸時代中期に活躍した絵師
「伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)」の作品である
雪中雄鶏図(せっちゅうゆうけいず)
がありました
鶏の絵を何点も書いている伊藤若冲。
大の鶏好きなんですね~
彼はその他にも
蛸や魚、蛙、犬、雀と・・・誰もが慣れ親しんだ生き物を沢山描いています。
普通だったら、孔雀や龍や虎などの画の方が多く見かけますけど彼が42歳から10年かけて作った「動植綵絵(どうしょくさいえ)」シリーズはこれら親しみやすい動物や鳥たちが多く全30幅の大作となり、彼の最高傑作となりました。
その他にもこちらの方丈では
桃山時代を代表する絵師である長谷川等伯の
「竹林七賢人図」も公開していました。
そして、方丈をぐるーと回り込むと
池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)が広がっています。
この池の奥に見えるのは
水月亭(すいげつてい)と臨池亭(りんちてい)と呼ばれる
2つの茶室ですね
アングルを変えてもう一枚♪
こちらの建物は書院ですね。
この書院には入る事が出来まして・・・
こちらはその書院の中から見たお庭ですっ。
うーん、お見事
さて、冒頭でもお伝えしました
黒田長政の守護神である
毘沙門天像はドコにあるのかと言いますと・・・
一旦、両足院を出て右隣にあります
毘沙門天堂にあるんですね~
では、次に黒田長政についてもご説明したいと思います
黒田官兵衛を父に持つ黒田長政
彼ももちろん秀吉の家臣の一人であり
朝鮮出兵にも参加し、武功を上げています。
しかーし、秀吉が没すると、お父さんと同じく石田三成と対立しちゃうんですね。
そして、関ヶ原の戦いでは
もちろん東軍の武将として活躍した黒田長政。
石田三成らの西軍と戦い・・
見事勝利するんですよね。
しかも、有名な「小早川秀秋の寝返り」に関しても
黒田長政が交渉に成功したと言われています
※この小早川の寝返りが関ヶ原の勝負の分け目であったんですよね。
つまり、黒田長政は
関ヶ原の戦いでは
一番の武功を上げたというワケです
毘沙門天堂の境内には「虎の絵馬」もありました
毘沙門天の神使(神の使い)は虎ですからねっ
※毘沙門天は、寅年、寅の月、寅の日、寅の刻に誕生したと伝わっている事から毘沙門天の化身や神使として虎が用いられるようになったんですね。
と、いうワケで
もちろん、阿吽の虎も
ばっちりありましたよ
そして・・・
こちらに祀られているのが
黒田長政の守護神で、その高さ、なんと7センチの毘沙門天像があるんですね。
普段はこちらの毘沙門天堂も、非公開なんですけど
それに加え、境内が公開中でも
こちらの毘沙門天像はずっと見る事が出来なかったそうです
それが今年になってようやく毘沙門天像も拝見できる事になったとの事ですね~。
直接の撮影は禁止でしたので、アップのものが取れなくて
残念ですけれど・・・
でも、どうして7センチそんなに小さいの
と言いますと
こちらの毘沙門天像は、元々
鞍馬寺の毘沙門天像の体内仏(たいないぶつ)
つまり仏像の内部に納入された小仏像だったのです
しかし、この小ささのおかげで戦国武将のひとりである黒田長政はこの7センチの毘沙門天像を兜に納め関ヶ原の戦いに出陣出来たともいえますよね~
さて、その関ヶ原では見事に一番の武功を上げ
超破格の筑前福岡藩52万3,000石を手にした黒田長政
これをお父さんである
黒田官兵衛に報告します
長政「お父さん、オレ、家康様にめちゃ誉められたよ!関ヶ原の戦いで活躍したんだ♪」
官兵衛「ほぉ、活躍したのか、そうか。」
長政「そうだよ!だって52万石だぜ!すげぇじゃん。」
官兵衛「なるほど。」
こうして、長政はどれだけ自分が活躍したかを
父である官兵衛に話します。
自分の活躍を父親に認めてもらいたかったんでしょうね
長政「それに、家康様がオレの手を握ってよくやったよくやったと褒め称えてくれたんだよ~」
官兵衛「・・・長政。その手は右手であったか、左手であったか。」
長政「え?右手ですよ?」
意味がわからないまま
息子である長政はそう答えます。
・・・しかし、ここで官兵衛は一言いいます。
そのとき、そちの左手はなにをしていたのだ
そうなんです、つまり
その左手で、家康を刺し殺せるぞ。と・・・
実は黒田官兵衛は天下を取る自信がありました。
石田三成と徳川家康が戦った関ヶ原の戦いも
勝者が家康になる事も予想していたんですね
その上で、関ヶ原の勝者となった家康と
対峙しても勝てる絶対の自信がありました。
実際、官兵衛は計画を実行し島津氏以外の九州を平定し
軍隊を大きく膨らませていました。
また、疑われない為にも関ヶ原では息子を家康の下につけさせたんです!
彼の計画の中に
自分の息子は大して武功は上げないと予想していたんですね。
関ヶ原の戦いに自分の息子がいてもさして影響ないと。
そして、その戦いは長期化(数ヶ月)すると思っていたんです。
それが一日で終わった
どうしてだ?と家臣に聞くと
「ご子息が武功を上げられたんですよ!」
となったんですね。
これは、官兵衛にとっては大きな計算外の出来事で
その後・・・家康にも不振な動きを悟られる事となり
結果的に官兵衛の天下取りは幕を下ろす事となるのです
官兵衛の思惑とは裏腹に
そんなミラクルを起こしちゃった息子
この事に対して
黒田官兵衛は息子を怒ったのですね
そんな両足院の場所はコチラ↓
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