こんには、京子です
さて、本日は
忠臣蔵で有名な大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)が
赤穂城を退去後、訪れた場所としても有名な・・・
来迎院(らいごういん)です
はい、ではここで
まずご説明させていただきたいのが
「来迎院」という名前のお寺は京都に2つございまして
今回ご紹介するのは、泉涌寺の塔頭(たっちゅう)であり、京都東山にございます「来迎院(東山)」になります
※塔頭(たっちゅう)とは元々は、境内の中に建てた小院の事です。
では、早速いってみましょう~♪
まずは、こま札からチェック!!
こちら来迎院の始まりは、泉涌寺と同じく、弘法大師「空海」によるもので
彼が唐から帰ってきた後、「荒神尊(こうじんそん)」をこの地に安置した事に始まるんですね。
現在、この来迎院に安置されています「三宝大荒神像」は、これに由来するもので鎌倉時代に作られたものだそうです。
荒神は神様のひとつで、来迎院の荒神は「ゆな荒神」とも称され
安産の御利益があり、朝廷の人も祈願した事もあるんだとか
ちなみに「ゆな」というのは何かと言うと、母体にいる胎児を包んでいる「胎盤」の事を、昔は「えな」と言っていたそうでそれを語源として「ゆな荒神」と称されているようですね~っ。
さて、まず境内に入り、まっすぐに道が伸びていますけれど
その先の階段、奥に見えているのが・・・
荒神堂なんですね
こちらに、先ほどご説明しました三宝大荒神像が祀られています。
※来迎院は、この三宝大荒神像に加え護法神立像五体が重要文化財となっています。
そして、次は荒神堂の手前にありました、こちらをご紹介っ
それは・・・
文字の書かれた石の数々っ
京子も子供の頃、石をペインティングしてましたけど
実はそうではなくって、こちらに書かれているのは
願い事なんですね。
では、その願い方をご紹介させて頂きますと
こちらの「祈願の御石」と言いまして、御石に願い事を書いたあと
それを手に持ちます。
そして、すぐ隣にあります弘法大師銅像
(つまりこの来迎院の出来るきっかけとなった空海の銅像ですね)
の周りを
3周、ぐるぐる~っと回って
最後にこちらの大きな石の上のあたりに書かれている「梵字(ぼんじ、仏教と供に伝来した文字)」にその願い事の書いた御石をコツンとあてて、祈願し置いて帰るんですね
なかなか手の込んだ願い事です!!
(・∀・)ノでも、その分、なんだか叶う気がしますね~♪
絵馬もこの近くにありましたのでパシャリ♪
弘法大師「空海」が掘ったと伝えられ、現在も水が湧き出している独鈷水(どっこすい)です。
さて、空海により始まった来迎院ですけれど
後に衰退・・・。
数百年の時を経て、
泉涌寺第四世の「月翁律師」という人が藤原信房の帰依を受け
来迎院の諸堂を整備します。
しかし、またしても応仁の乱により燃えてしまう事となりますけれど
1597年に加賀百万石の礎を築いた「前田利家」により再び、来迎院が再興されたという事です
前田利家といえば、豊臣秀吉の親友というイメージが強いですよね♪
2人とも、信長の家臣でしたし、秀吉が足軽の頃からの古い付き合いだったんですよね。
彼は槍の名手だった事から「槍の又左(やりのまたざ)」の異名があったほどの人物です。
信長が討たれた後、家督争いで起こった
賤ヶ岳の戦いにおいても
柴田勝家側についていましたが
親友である秀吉との関係に苦しんだと言われています。
ちなみに!
秀吉が亡くなり、いよいよ徳川家康が天下取りに動き出した際も、一番注意していた人物というのが・・・この前田利家だったんですね。
利家は家康が秀吉亡きあと、天下取りに動いている事を知り対立していたそうで、家康が病気見舞いのため利家邸を訪問した際には利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたというエピソードも残っています♪
「家康の好きなようにはさせんぞーっ!」と、
病に倒れながらも
秀吉の息子の秀頼の事を心配に思っていたという事でしょうか
※秀吉からも息子の秀頼を頼む!と言われていたんでしょうね~。
家康と唯一、互角に渡り合える力を持っていた利家。
彼の死は、家康の天下取りに決定的に「有利」になったと言えますね
さて!お話を来迎院に戻しまして
次にご紹介するのは
こちらの本堂です
中には何があるのかと言いますと
「勝軍地蔵大菩薩像」です。
この菩薩像に礼拝していたと言われているのが・・・・
大石内蔵助良雄、その人だったんですね。
松の廊下事件(まつのろうかじけん)により
赤穂藩主であった浅野匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が切腹し
幕府からお家断絶を言い渡され、解体。
赤穂城を開場する事となります。
しかし、赤穂藩の筆頭家老であった大石内蔵助良雄は
浅野匠頭長矩の敵(かたき)を取る事を決め
解体された赤穂藩を離れ
移り住んだと言われているのが京都の山科でした。
でも、どうして彼は京都にやって来たの
という理由のひとつと言われているのが
大石内蔵助良雄の外戚(母方の親類)が、こちらの来迎院で長老の立場にあったことからだそうです
その後、京都山科に居住を構え
来迎院を檀家としたんですね♪
※寺請制度により、個人はどこかの寺の所属(檀家)となる事が決められていました。
それに加え
大石内蔵助良雄はここに茶室を作っちゃいます
それが・・・
含翠軒(がんすいけん)です。
弘法大師「空海」が掘り当てた独鈷水で茶を立て
ここで吉良邸討入りの密談をしていたと言われているんですよ~
うーん、どんな話をしていたんだろう・・・
聞いてみたかったですね~っ。
含翠軒と書かれていると思われる石碑です。
こちらは庫裡(くり)。僧の台所兼寺務所の役割がある伽藍です。
そして、含翠軒の前に広がるお庭には
心字池(しんじいけ)です。
「心」の字をかたどった池と呼ばれているんですね。
真上から見たらちょうど「心」と読めるのかなぁ
そして、こちらのお庭にはちょっと珍しいものも
聚楽第灯篭(じゅらくていとうろう)ですっ。
聚楽第とは、豊臣秀吉が建てた政庁兼、邸宅ですよね~。
関白になった秀吉が、京都に作ったもので、とにかく広い建物だったそうで、外塀までを含めると約268,000平方メートル!京都御所の2倍という、大きなものでした~。
後に、関白職を甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に譲ると同時に
聚楽第も秀次のものとなるんですけど
数年後・・・
秀吉から謀反の疑いをかけられた秀次は高野山へ追放!!
それと同時に、聚楽第も
秀吉により、徹底的に破壊されちゃうんですね。
自分で作って自分で壊す!・・・さすが秀吉。
そんな来迎院(東山)の場所はコチラ↓
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