こんにちは、京子です
さて、本日も紅葉の見所をご紹介します~っ。
その場所とは・・・
光悦寺(こうえつじ)ですっ
さて、この光悦寺というお名前は
ドコから来たのかと言いますと
本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)という人っ
江戸時代初期の書家、陶芸家、画家で
寛永の三筆のひとりとも言われているんですね
その彼の屋敷が、死後、寺へと生まれ変わったのです。
本阿弥光悦は京都出身で
刀剣の鑑定を家業とする本阿弥家に生まれます。
ではでは、彼の生涯と供に
こちらの光悦寺をご紹介しましょう~っ
どうですか~!
(・∀・)ノこの見事な紅葉のトンネルっ
もう見てるだけで中に吸い込まれて行きますねっ~
※ちなみに光悦寺のすぐ側には「悟りの窓」で知られる源光庵もありますよ
入ってみるとびっくり!
なんと、こちらのお寺には
7つもの茶室があるんですね。
まず、最初にご紹介する茶室は
三巴亭と言います。
ん?本阿弥光悦に・・・三巴・・・って言えば・・・
ここでピーン
と来た方はスゴいっ。
そうです、以前ご紹介した
本法寺のお庭には
本阿弥光悦が作った三つ巴の庭があるんですね。
この三つ巴とは
「過去・現在・未来」という意味が込められているそうですよ。
そこから名前が取られたのではないかなと思います。
そして次にご紹介する茶室は・・・
大虚庵(たいきょあん)
この「大虚庵」という名前は、光悦が鷹ヶ峰に営んだ居室の名称から取られたそうです。
もちろん、現在の大虚庵は当時のものではなく
大正時代に建て直されていて
内装なども若干、当時とは違うようです。
そして、この大虚庵の前に
どーーんと広がっているのが・・・
光悦垣(こうえつがき)です!
別名「臥牛垣(ねうしがき)」とも言います。
複雑に斜めに組み合わせた竹垣ですね~。
大虚庵の写真にも写っているこの竹垣・・・
よーく見てみると
竹垣の縁(ふち・へり)の部分は
竹を細く割り、それをいくつも使い丸く束ねています。
かなり重厚な竹垣ですよね
ちなみにスタンダードな竹垣って
縦と横で組み合わせてますよね
それが光悦垣は
斜めにクロスされていて
ぐるっと円を描くように
曲線状に竹垣がぐーんっと伸びているんですね♪
(・∀・)ノ確かに一味違う光悦垣
当時、これを見た人は新しいアートを感じさせるものだったんじゃないかと思いますね~。
光悦垣をバックに一枚っ。
では、他にどんな茶室があるのかと言うと
了寂軒(りょうじゃくけん)
本阿弥庵(ほんあみあん)
などなど
他にも、徳友庵、騎牛庵、自得庵と呼ばれるものがあります♪
どれも素敵な茶室なので
是非、直接足を運んでご覧くださいね~っ。
でも・・・
どうしてこんなにも茶室があるのでしょう
この地は鷹ヶ峰と言いまして
ここで本阿弥光悦は何をしたのかと言いますと・・・
芸術村を作ったんですね
時の将軍、家康によりこの土地を寄進されます。
その理由とは・・・
物騒な土地だったから!という事だそうです。
京都と言っても、ここは洛外であり
辻斬りや追い剥ぎ(おいはぎ・通行人を襲い、衣服・持ち物などを奪い取ること。)が
絶えなかったそうです
絶景が広がります。目の前には鷹峰三山(鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰)が望めます。
紅葉は現在、見ごろですよ~っ。
そんな場所を、家康は本阿弥光悦に与え
彼の協力の下
様々な工芸の職人らを移り住まわせ「芸術の集落」へと生まれ変わらせたのです
そして、千利休の孫である、千宋旦(せんのそうたん)とも親交が深く
彼により茶道にも精通していったそうなんですね
だから、これだけの数の茶室があるのだと思います
本阿弥光悦は自由な幅広い活動で知られ
作庭や書道、工芸、絵や茶道などなどそれも一級品!!
彼は多岐に渡るその高い芸術性から
マルチアーティストの元祖であり
「日本のダ・ビンチ」とまで言われています!
その他にも
当時では珍しい
「活字本」という形を作り上げたんですね
嵯峨の豪商、角倉素庵と共同で作成したのが、「嵯峨本」です。
活版印刷を利用し、製本された活字本で
1~3文字がひとつとなった(例えば、お花・天気・お正月などなど)ハンコを
組み合わせて、文章を作成し紙にペタンと付く製法です。
ちなみに本の内容はというと
挿絵などもついた「伊勢物語」などを収録していました~っ。
本阿弥光悦のお墓ももちろんあります。
享年80歳、彼はこの鷹ヶ峰で没しています。
故人を偲び、建てられた光悦寺は
「本阿弥光悦の下に集まった数々の芸術家が、またいつでもここへ戻ってこれるように。」
そんな場所にしたくて建てられたのかもしれませんね
そんな光悦寺はコチラ↓
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