いよいよこちらで最後となりますっ
時代祭(後編)です~。
時代は、南北朝時代へとかわっていきます
パンフレットには吉野時代と記載されていました。
さてさて
南北朝と言えばもちろんこのお方・・・
楠木正成ですよね~
楠木正成(くすのきまさしげ)
後醍醐天皇の勅使を受け、足利氏討伐に向かった楠木正成。勝てない戦でも立ち向かう「七生報国」(七度、人と生まれて逆賊を破る)という言葉は尊王派の長州藩の合言葉にもなりました。
この時代祭りでは
楠木正成が一族郎党を率いて兵庫に出迎え先駆して上洛したときの様子を現したものなんだそうです
楠正成の家紋です。天皇家より授けられた菊花紋を畏れ敬って、下半分を水流で隠すという尊皇と謙虚さの表れだと言われる菊水紋。
更に大原女、桂女、そして淀君や静御前といった女性達の行列が続きます
大原女(おおはらめ)
大原女は墨や薪を売りにくる女性の行商で、大原というのは京都市北部の地名のひとつです。
桂女(かつらめ)
桂女は鮎や飴を都に売りにくる女性の行商で、桂も京都市西部の地名のひとつです。
淀君(よどぎみ)
秀吉の側室である淀君は、秀吉の息子である「秀頼」を産んだ女性。大阪夏の陣で息子、秀頼と共に自害したと言われています。
静御前(しずかごせん)
源義経の愛妾である静御前。2人の出会いは神泉苑の橋の上。義経はそこで舞い踊る静御前と出会ったそうです
そして、時代は鎌倉時代へと突入!!
鎌倉時代は、北条義時追悼の挙兵準備をした一場面を表現しているんですよ
鎌倉時代の流鏑馬「射手武士」ですね。流鏑馬は平安朝以来行われた騎射の技であり、武者の間で盛んに行われていたそうですね。
コチラも同じく、「射手武士」の方です。
つまり・・・
承久の乱に出掛けて行く様を表しているんですね
続いて時代絵巻も終盤に向かってきました。
平安時代に突入です
パンフレットによると藤原時代に分類されている行列が歩いてきます。
藤原時代に突入すると、藤原氏の最盛期の文武両様の姿を表した一団が登場。蛮絵と呼ばれる刺繍が施されています。
殿上人(てんじょうびと)は天皇の日常生活の場である清涼殿南廂へ昇ることを許された者の事です。ちなみにこの時代の武士は朝廷から見ると番犬扱いで、同じ高さにいる事はありませんでした。
続いて女性・・・
平安時代を彩った女性達が続きます
こちらは、この行列の中で「唯一」女性なのに
鎧を着ている巴御前です。
巴御前(ともえごぜん)
木曾義仲の側室であり、敵からは「こやつは女じゃない。鬼神よりも勝る!」と言わしめた、一騎当千の女武者。
こうしてみるとやはり
女性でも勇ましく思います。
ここから、
小野小町や、清少納言、紫式部といった人たちが続いていきます
小野小町(おののこまち)
女流歌人であり、三十六歌仙の一人です。人受けの良い美人や、気立ての良い女性を「小町娘」や「○○小町」と言いますけれどこの「小町」という言葉は彼女からとられました。「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」は百人一首に収められている有名な彼女の詩ですね。
こちらの清少納言はあまりにも有名な枕草子の作者。清少納言と、同時代の「源氏物語」の作者である紫式部とはライバル関係であったと言われています。この後ろにその紫式部もいましたよ♪
白川女(しらかわめ)
花を摘み京の都に売り歩く行商を行っていた白川女とは、山城国の愛宕(あたご)郡に属していた白川の地の北側に位置していた北白川という地名です。
そして、時代祭りは終盤っ
桓武天皇の時代に入っていきます!
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
蝦夷(エゾ)を征圧・征服するための役職だった征夷大将軍を授かった坂上田村麻呂。清水寺には彼が男の約束を果たせず・・阿弖流爲の命を守れなかった事を悔いて碑を建てました。
こちらの三位は全行列中最高位と位置づけられ、平安神宮に還り着いた時、全員を代表して大極殿で祭文を奏上します。
神行列の鳳輦(ほうれん)。これは2つあり、それぞれ孝明天皇、桓武天皇の神霊を乗せています。
桓武天皇の平安遷都の際に列の警護にあたった弓箭組列(きゅうせんぐみれつ)
という事で
桓武天皇の頃にまで
時代は遡った所で・・・
無事に終了~っ
この後、パレードは御苑の正門である堺町御門を出て
市内を迂回しつつ、平安神宮へと目指します
という事で、京子は御苑にて時代祭の様々な志士や、武将、そして貴族にいたるまで無事に送り出す事が出来ましたっ!!
読んで頂いた皆さんもありがとうございました
平安神宮↓
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