こんにちは、京子です!
さて、本日は京都の繁華街
河原町のど真ん中に位置するお寺で
落語発祥の寺と言われ
芸能関係者にはよーく知られている・・・
誓願寺(せいがんじ)です
さて、この誓願寺。
名前を聞いても思い出せない
という方の為に
まずはこれを見てみてくださーい。
そうです、新京極通りと六角通りの交わる
噴水のあるちょっとした広場
その角にあるお寺です。
京都市内の方ならこの説明でピンとくるはず
ここが、誓願寺なんですね。
ちなみにこちらのお寺、建てられたのは
なななーんと飛鳥時代
平安京へと遷都された事により
一緒に京都へ引越しをされてきたそうですよっ。
早速、西門をくぐり中へ入ってみます。
入ってすぐに、京子がビックリしちゃったのは
それほど広くない境内において
ひときわ目立ち輝いているモノを発見っ。
そうです、それが・・・
本尊である
阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)
大きさは資料によると、4.85メートルという巨大な像
安置されている本堂は
明るい!そして、ゴージャス。
天井には絢爛豪華な装飾品の数々~
それもそのはず、こちらの本堂が建設されたのは
昭和39年という事で他のお寺にくらべ
モダンな雰囲気と造りになっているんでしょうね。
さて、冒頭でも少しお話しましたけれど
落語発祥のお寺といわれる所以をご紹介しましょう
こちらの元住職である「策伝上人」(さくでんしょうにん)は
落語の祖と言われているんです。
彼は戦国時代の僧であり布教活動をする傍ら文人や茶人としても優れていたとされ、彼の残した「醒酔笑(せいすいしょう)」というオチのついた1000のエピソードを収録した本が有名です。今でいう・・ネタ本ですよね。
これが落語本の先駆けとして高く評価されているそうですよ♪
そして、現在は毎年10月に「策伝忌」と題した落語会も行われています。
愛されてますね、策伝上人~っ。
こちらが誓願寺の寺紋になります。
「南無地蔵大菩薩」お地蔵さんが合体していました!
北向地蔵尊です。
さて、そんな誓願寺へ出家した二人の女性もご紹介しておきます。
和泉式部(いずみしきぶ)は娘を亡くした悲しみに暮れ、その後48日間、この誓願寺に篭った後、庵室(尼の住居)を作ったのです。
※ちなみにその庵室は「誠心院」として新京極内に今も残っています。
そして
枕草子の作者である清少納言(せいしょうなごん)
だったんですね。
芸能に所以のあるお寺という事何ですけれど
実は「能」の謡曲「誓願寺」という歌がありまして
これに、一遍上人(いっぺんしょうにん)が女(和泉式部の化身)に
「だれでも南無阿弥陀仏と唱えれば必ず往生できます」と伝え
やがて歌舞の菩薩となった和泉式部の姿であわられて、
浄土の世界を見せるというものなんです。
そのお話もあり、舞踊家の間に「和泉式部信仰」が生まれ能楽など芸能の世界の人々からの信仰が厚いそうなんです。
そして、そんな信仰の厚さを窺い知る事のできるものが
ありましたっ。
扇塚(おおぎづか)
この京の都で芸道に励む人たちは自分の使った扇子を
この塚に納め祈願するようになったそうです。
更に本堂には芸道に生きる人たちの願いが書かれた扇子が
ところ狭しと並んでいましたよ~っ。
やっぱり舞妓さんなども多数祈願に来られたのではないかなぁっと思います
こちらは1882年に建てられた「迷子のみちしるべ」
警察のなかった江戸末期から明治中期。迷子が深刻な問題になっており、この石に紙を張って情報を交換したそうですよ。
洛中にある観音霊場を巡拝する「洛陽三十三所観音巡礼」の一つともされています。
さて、最後に和泉式部と出会った、この
一遍上人という人はどんな人なの??
と申しますとズバリ!!!
踊念仏で仏教を民衆に広く説いた人なんです。
仏教は大きく、自力そして他力に分けられます。
そもそも、仏教が伝来し
信仰が出来たのは貴族の方たちのみだったんですね。
修行をし、莫大な時間とお金を使い悟りを開く。
これが「自力」。
それとは逆に
厳しい修行をしなくても、時間やお金に余裕のない農民でも
天国に行けるよと説き平民や農民に広がった教え
それが「他力」。
※代表的な人といえるのが空也ですよね。
そんな他力派である一遍も民衆に愛され
時宗(じしゅう)の開祖として全国を遊行(歩いて教える)し
別名「遊行上人」とも言われたんですね。
なるほどー
旅をして全国の皆さんに教えを説くなんて素敵ですね。
京子も、京都の中だけではありますが、夏の日も冬の日も歩き回り
京都のすばらしい文化や建物を巡り歩きたいと思います
いざ、遊行ブロガー京子っ。
そんな誓願寺の場所はコチラ↓
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