こんにちは、京子です。
さて、今日は
童謡にもなっているほどの2人
をフューチャーしたいと思います。
以前にも、首途八幡宮でも触れましたが
そうです。
牛若丸と弁慶!
この2人にゆかりのある神社と言えばここです。
五條天神宮(ごじょうてんじんぐう)
源義経といえば、好きな日本の歴史上の人物
トップ5に入るほどの人気モノですが
その義経が幼少の頃に呼ばれていた名前がこの牛若丸。
ですが、この牛若丸と弁慶は人気者ならではの
創作が多聞に及ぶお話なんですよね
人気モノであれば、大衆演劇になり絵巻になれば段々とオーバーになっちゃうもの
例えば弁慶(武蔵坊弁慶)!
大男で怪力の持ち主っ。しかも出生も、母親の胎内に18ヶ月もいて産まれた時には2、3歳児の体つき、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていた!
・・・というのですから驚きです
ですが、この弁慶のおかげで「弁慶の泣きどころ」や「内弁慶」なんて言葉が出来たのですから庶民には広く浸透し、語り継がれてきたという事ですよね
さて、この牛若丸と弁慶。
出会った場所や決闘した場所も様々な説(と、いうかお話?)があり
五條天神宮とも、五条大橋とも清水寺とも言われています。
こちらが五條天神宮の社殿。奥には高層マンションが立ち並んでいます。
ところで、この五條天神宮付近には
少し変わった町名がありまして
その名も…
天使突抜(てんしつきぬけ)
すごいもう京子の頭の中には
金のエンゼルがひらひらと舞ってる町並みをイメージしちゃいました
では、どうして天使突抜なんて名前がついたのでしょう
時は安土桃山時代、豊臣政権にまでさかのぼります。
五條天神宮は、蛤御門の変などで焼失を繰り返し
現在の大きさにまで縮小されましたが
その昔はもっと広く、出来た当初は「天使の宮」という名前で
近所の人の間では「お天使様」と呼ばれていた神社だったのです。
こま札チェック!御祭神は大己貴命、少彦名命、天照皇大神。
豊臣秀吉は、京の町の改造計画に乗り出し、
寺町通りを作ったりと区画整理を次々と行います
そして、この五條天神宮にもその手は及びました。
秀吉「上京の賑わいを下京にまで流そうかのぉ!ほいじゃここに道を作れ!」
と家臣に言い放ったそうです。すると家臣は・・・
家臣「ですが殿、そこに道を通しますと、五條天神の境内にブチ当たります(汗)」
秀吉・・・
「かまわん!通すのじゃ!!!」
( ´Д`)えー(汗)
という事でお天使様こと、五條天神宮の中に通りが一本。
そこから秀吉の横暴に我慢した京都の人もちょとした皮肉を込め
その通りを「天使突抜通り」(てんしつきぬけどおり)と呼んだそうです。
現在は東中筋通りとなっていますが、町名には天使突抜の名前が残っているというわけです
さすが、秀吉・・・無茶苦茶だ(汗)
そんな強引な区画整理のおかげで
牛若丸と弁慶のエピソードにまで影響してきちゃったんです。
牛若丸と弁慶、2人が戦った場所とされている
五条大橋!
弁慶は京の町で1000本の太刀狩りをしていました。そして、999本が揃い、残すは最後の1本。
そこに・・・どこからともなく聞こえてくる笛の音。
ヒュルルル~
ヒュルル~
現れたのは、黄金の太刀を腰につけた牛若丸。
( ´Д`)はい!ここ!!!ストップストップ!(汗)
お話の中では、五条大橋となっているのですが豊臣秀吉のおかげで
この場所まで変わってしまったのです。
orz
物語が語られた当時の五条大橋は
なんと秀吉により移動させられました
そして、五条大橋のあった場所には別の橋がかけられたのです。
それが松原通りに掛かる橋、松原橋です。
松原通り商店街にも牛若丸と弁慶のお姿が!
※松原通りの名前の由来は松並木の綺麗な通りだった事から取られたそうです。
現在の五条大橋は
南に2本下がったところになります
五条大橋には牛若丸と弁慶像がしっかりと建てられていました
でも、・・・何故に弁慶さん
( ´Д`)ズボン履いてないのデスカーっ!?(汗)
うーんこれはかなりの謎です。
牛若丸こと、源義経。
源義朝と常盤御前との間に生まれた義経。
出生時に牛若丸と名づけられ、幼少の頃、じつは遮那王(しゃなおう)と名乗っています
義経は兄の頼朝に許可なく朝廷から官位を受けた事
平家を滅ぼした壇ノ浦の戦いの時、安徳天皇を結果的に入水させてしまった事
天皇が即位する為に必要である三種の神器(草薙剣・勾玉・八咫鏡)を海に沈めてしまった事
などが頼朝の反感を買い目の上のたんこぶになるのです
兄の頼朝は鎌倉幕府を開きますが
弟、義経は鎌倉に入る事を兄から許されず
あげく、なんと弟、義経は朝敵にまでなってしまいます。
そして悲しい最後を迎えたのです。
そんな牛若丸でおなじみの五條天神宮の場所はコチラ↓
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