こんにちは、京子です。

さて、今回は以前の無鄰菴でも少し触れましたが


日露戦争で大きくその名を轟かせた軍人

乃木希典(のぎまれすけ)が御祭神である


乃木神社の門

乃木神社(のぎじんじゃ)です!


乃木神社のこま札

この乃木神社、京都以外にも

北海道、栃木、東京、香川、山口にも建てられましたが


でも一体どうして、この乃木希典(呼称、乃木将軍)という人はこれ程までに後世に伝えられる事となったのでしょうか


乃木神社の乃木将軍像

境内にある乃木将軍像


そこで本日は乃木将軍の一生を紐解いて行きながら

乃木神社へご案内したいと思います


乃木神社の境内

乃木神社境内は広く

乃木神社の石碑

この石碑も3メートル程の大きさです


まず入って左手に見えるのが

遺墨・遺品他、日露戦争前後の関係資料を展示した

資料館です。

中には若かりし日の乃木将軍の写真や

愛用品の数々が展示されており


乃木神社の写真

ロシア側が降伏した後、ロシア軍と日本軍、お互いの健闘を称えあった水師営の会見において撮影された一枚。2段目、右から3番目が乃木将軍です。


長府藩の藩士の息子として生まれた乃木将軍

若かりし頃は、あの高杉晋作が率いた奇兵隊

一員として活躍していました


そして

その後、 陸軍少佐となり、今度は明治政府として

西南戦争に参加し、西郷隆盛率いる薩摩軍と戦うのですが

ある事件が乃木将軍を襲います。


乃木将軍率いる部隊、退却の際に軍旗を持たせた兵が討たれ

軍旗がなんと薩摩軍に取られてしまったのです


「明治天皇から給わった軍旗を薩摩軍に奪われた…」

乃木将軍を苦しめ切腹し責任を取ろうとしますが

それを明治天皇により止められます。


乃木神社の乃木夫妻

館内には乃木夫妻の姿もありました。


西南戦争から数十年が経った

1904年、日露戦争が開戦となり

乃木将軍は第三軍司令官としてその任務についたのです。

そして、その日露戦争で乃木将軍という名を轟かせる事となります。


乃木神社の民家を移築した建物

資料館を後に、次に京子が向かったのは乃木将軍率いる第三軍の司令部として使われた民家を移築した建物。ここにも乃木将軍にまつわる品々が展示されています。


日本がロシアに勝つためには

満州にいるあのナポレオンを破ったロシアの陸軍部隊

それに不沈艦といわれたバルチック艦隊

そして東洋艦隊を破らなければいけませんでした


バルチック艦隊は、ヨーロッパにいて、ウラジオストックに向け、出港準備段階であり日本の連合艦隊では、バルチック艦隊、東洋艦隊両方を相手にする力はありません。

いや、そのどちらと戦っても勝てる見込みのほうが

少なかったといってもいいでしょう


そうなんです

この日露戦争で日本が勝てる見込みはゼロでした。


世界中のどの国も日本が勝つ可能性は100%ない!

と言い切っていた時代です


しかし、ドイツのメッケルという人だけは日本が勝つといっていました。

このメッケルという人はドイツの参謀のトップです。


彼曰く

「日本には児玉源太郎がいる。

彼がいる限り、日本は必ずロシアに勝つ

彼は天才だ

いや~すごい人です。

このメッケルという人はヨーロッパの軍人では

かなり名の知れた人です。

そんな人がこんな事を言うなんてすごいですね。


まずは、旅順軍港にいる東洋艦隊を破ってしまわないと

日本の補給路が確保できません。


と、いうのも当時は現在みたいに航空機が発達していた時代でもありませんので武器や兵を輸送するにも食料を輸送するのにもまず、日本海から朝鮮半島に渡りそれから満州で戦っている部隊に運んでいかなければならないのです。


仮にバルチック艦隊と東洋艦隊が日本海で合流してしまった後では日本艦隊が勝てる見込みは100%ゼロになり

日本から満州で戦っている陸軍部隊への補給路は

完全に絶たれてしまうのです。


そのため、日本はなんとしても、日本連合艦隊を無傷で東洋艦隊を破る必要がありました


ですが、そんな奇跡のような作戦はありえないといえます。

うーん。どうする日本


しかし、その奇跡の作戦を日本はなんと立てました。

その作戦を立てたのが、先ほどのメッケルが言っていた

天才児玉源太郎なんです。


その作戦は、旅順軍港にいる東洋艦隊をリャオトン半島にある203高地から陸軍力によって砲撃し、壊滅させるというものです。

この作戦がうまくいけば、日本連合艦隊は無傷でバルチック艦隊に当たれるというわけです。


そして・・・

作戦を任せられた男が、そうです・・・


乃木将軍だったのです


ですが、

乃木将軍率いる第三軍は

多くの犠牲者を毎日出します。


国内では乃木将軍の更迭問題にまで発展しますが

明治天皇はこれを一徹

「乃木がここで降りればそれまでに死んでいったものの

名誉はどうなる!?」

とおっしゃったそうです。


そんな中一人の救世主が現れます。

そうです天才児玉源太郎です


児玉と乃木将軍は古くからの戦友であり

見かねた児玉源太郎は、その地に出向き見事203高地を攻略


その後、恐れられていたロシア戦艦(東洋艦隊)に対して

砲撃を開始し見事撃沈


また、東郷平八郎、秋山真之の作戦により

バルチック艦隊も撃破!

この時の海戦は世界三大海戦のひとつとされています。

満州にいる陸軍も児玉源太郎の鶴翼の陣により撃破!


日露戦争は勝利したのです。


後にこの決め手となった203高地を

乃木将軍は爾霊山(にれいさん)と名付けます

乃木神社のパネル

建物の中にはそんな戦時中のエピドードなどがパネルで丁寧に説明されています。


乃木将軍は生前よく、げんかつぎに「栗」を食べていたそうです。

それは何故かというと・・・


乃木神社の全てに勝ちまくり(栗)

全てに勝ちまくり(栗)!!!


乃木神社の栗絵馬

うーん、ダジャレです(笑)

ですが、乃木神社の絵馬にも栗が使われており

受験合格!や、スポーツ大会優勝!などの願い事が沢山書き込まれていました


そんな乃木将軍ですが日露戦争後は、明治天皇より

後の昭和天皇となる裕仁親王の教育係として学習院院長に命じられたそうです。


そんな乃木将軍は子供も日露戦争で失い夫婦2人だけの生活を送っていた最中・・・


明治天皇が体調を崩し入院。

何度も何度も見舞いに伺われたそうですが

明治45年(1912年)7月30日、明治天皇は崩御されます。


そして、同年9月13日、明治天皇大葬の後

乃木将軍は奥様と共に自刃。亡くなられました。


乃木神社の遺書説明

残された遺書には明治天皇に対する殉死であると書かれており

なんと

「西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死」

である旨が記されていたのです。


うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり

という辞世の句も残されていました。


乃木将軍が悲劇の将軍といわれるエピソードは多々ありますけど、あえてふれずにおきます


この事件は日本中を駆け巡り、

日本を代表する哲学者であり京都大学教授、名誉教授の西田幾多郎は

「乃木さんの死について、かれこれ理屈を言う人があるが、此の間何等の理屈を入れるべき余地がない。近来明治天皇の御崩御と将軍の自害ほど感動を与えたものはない」

と言ったそうで

他にも森鴎外、幸田露伴、内村鑑三、徳富蘆花、新渡戸稲造、黒岩涙香、志賀直哉

などの文化人もこぞって乃木将軍の殉死をペンで語ったそうです。


そんな乃木神社の場所はコチラ↓


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