メモ2013-08-21
テーマ:神社

総神社

今回ご紹介するのは

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)や

源義経(みなもとのよしつね)の父親である

源義朝(みなもとのよしとも)を祀っている神社・・・

総神社

総神社(そうじんじゃ)です

※漢字は2つあり『總神社』とも書きます。


平清盛(たいらのきよもり)のライバルとも言える人物で

平治の乱(へいじのらん・1159年)にて、2人は戦う事となります。

源義朝については

後ほど詳しく解説させていただきます


総神社由緒

まず、総神社の創建についてですが

建てられたのは飛鳥時代後期と言われ

聖神寺(しょうじんじ・明治期に廃寺)の鎮守社とされていたようです。

ちなみに、この神社を管理していたのが

・・・菅原氏です。


学問の神様で有名な『菅原道真(すがわらのみちざね)』を排出した氏族です

その菅原道真も生前、叔母との別れを惜しみ

こちらの総神社にて一泊したと伝えられています。

※叔母は当時、総神社で巫女をしていたそうです。


別れとは?どういう事かと言いますと・・

当時、菅原道真は藤原時平(ふじわらのときひら・左大臣)と対立し

デマを流され、大宰府(だざいふ・現在の福岡県)に左遷されてしまうんですね。

その前に、名残惜しむように

叔母のもとを尋ね、一晩を過ごしたと言われています。


菅原道真は結局、都に戻れぬまま

大宰府にて不遇の死を遂げる事となりました。

※菅原道真について詳しくは北野天満宮 その2菅大臣神社 その1の記事をご覧ください。


続いて、こちらの祭神についてもご説明しますと

以下の神様を祀っています。

拝殿

・天満大神(てんまんおおかみ)

菅原道真です。


・八幡大神(はちまんおおかみ)

応神天皇(おうじんてんのう・第15代天皇)です。


・天穗日命(あめのほひのみこと)

天皇家の祖先神である天照大神(あまてらすおおみかみ)から生まれました。


これに加え

源義朝が祀られているんですね。


この総神社のある紫竹(しちく)地区は源義朝の別邸があった場所とされ

彼の息子である源義経も、この地で生まれたそうです。

こうした事から源義朝が祀られているものと思われます


さて、冒頭でも言いましたように

源義朝は、平清盛とライバル関係にあった武将として知られています。

※年齢は義朝の方が5歳上です。



彼らが生まれた平安時代後期

武士は朝廷からすると番犬のようなもので

貴族に使われる道具といった存在でした。

・・つまり武士の世の中ではなかったワケです。

※実際、公家たちと同じ建物に上がる事など許されませんでした。



しかし!その後

武士の力を知らしめる戦いが起こります。

それが・・・保元の乱(ほうげんのらん・1156年)です。


王位継承を巡り

後白河天皇(ごしらかわてんのう)と

崇徳上皇(すとくじょうこう)の戦いが勃発します。


それぞれ、源氏や平氏の武士を駆り出して、この戦いは行われました。

この時、源義朝や平清盛は後白河天皇側につき戦を行い

・・・見事に勝利を収めたんですね


これにより源義朝や平清盛は何を思ったのかと言うと

「俺たち、武士の勝敗で政(まつりごと)が動いたんだ!」

という事です。

つまり武士達の争った結果が、世の中を変えたんですね。

※保元の乱について詳しくは、高松神明神社の記事をご覧ください。


厳嶋社

こちらは末社の厳嶋社(いつくしましゃ)です。市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が祀られています。美人の神様として知られ、弁財天とも同一視されている神様です。


こうして、後白河天皇より恩賞を賜りますが

源義朝は『左馬頭(さまのかみ・馬寮の長官)』の官位を

平清盛は『播磨国の国守』を任される事となりました。

・・しかし、その恩賞の差に不満を持ったのが源義朝です!

清盛は一国を任されたのに、俺はなんで貰えないんだ!?

と嘆いたのかも知れませんね。


それでも源義朝にすれば大出世だったそうです

※源義朝は『保元の乱』において、崇徳側についた父親・源為義(みなもとのためよし)の処罰まで行ったのに「扱いが清盛と違いすぎるじゃないか!」と嘆いたと言われています。


そして、これが複線となり・・

『平治の乱』が起こる事となります!

これは平清盛が熊野詣(くまのもうで)にて

京を不在にした際に行われたクーデターです!

※熊野詣は当時、天皇家を中心に流行っていたもので、現在の和歌山県と三重県の県境にある熊野三山を参拝する事を指します。詳しくは京都3熊野の記事をご覧下さい。


このクーデターは藤原信頼(ふじわらののぶより)と

源義朝が中心となって行われました。

源義朝は、後白河上皇(この時には譲位し、上皇となっています。)の

側近であった藤原信西(ふじわらのしんぜい)を襲撃し

自害にまで追い込みます。


藤原信西は自害の際、首が取られないよう

自らを地中に埋めるように部下に指示したと言われていますが

これを源義朝側についていた武将・源光保(みなもとのみつやす)に掘り返され

京にあった獄舎(囚人の牢屋)に、首をさらされたそうです。


これに怒りを示したのが・・・平清盛です!

知らせを聞き、急いで京に戻った平清盛は

御所の内裏に拘束されていた、天皇と上皇を奪還し

源義朝を追討する勅旨を受け、一気に義朝軍を打ち破ったといいます。

※源義朝は六条河原にて清盛軍と戦い、敗走する事となりました。


恋文の木

『恋文の木』です。


恋文の木

昔は紙が貴重とされていた為、この木の葉の裏に文字を書いて手紙としたそうですよ。


恋文の木

中には恋文もあったんでしょうね~。


さて、平治の乱によって京を後にした

源義朝の最期は・・・?と言うと

敗走途中、尾張国(おわりのくに・現在の愛知県)にて

お風呂に入っている所を

家来の謀反を受け、斬られたと言われています。

※場所は知多半島の野間という所だそうです。


彼は帯刀もしていない状態で襲撃された事から

「無念なり、われに木太刀(きだち・木刀)なりともありせば・・」と言い残し

息絶えたと言われているんですね。

※この故事より大御堂寺(おおみどうじ・愛知県美浜町)にある源義朝の墓には、大量の木刀がお供えされているそうですよ。


さて、平治の乱は平清盛の勝利となったワケですが

・・・彼はある重大なミスを犯してしまう事となります!

それは、後に平家を滅亡に追い込んだ

源頼朝や源義経を捕縛したにもかかわらず

生かしておいてしまった事なんですね!!


本来であれば、反逆の種になりかねない

男児を生かしておく事は無いと思います。

※当時、頼朝は13歳、義経は生まれて間もない状態でした。


捕縛した際、清盛の義理の母にあたる池禅尼(いけのぜんに)が

源頼朝らに同情しこんな小さな子供を殺すのは可愛そうだ。」

清盛に嘆願したと言われています。


結局、これを受けて

頼朝は伊豆へ配流、義経は鞍馬寺へ預けられたそうです

※鞍馬寺については鞍馬寺 その1鞍馬寺 その2 をご覧下さい。


ですが、結局この2人によって20数年後

平家一族は滅亡に追い込まれる事となるんですね。


そんな源義朝が祀られている

総神社の場所はコチラ↓


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