2014-09-04 | |
テーマ:お寺 |
善想寺
今回ご紹介するのは
京都市中京区にある
善想寺(ぜんそうじ)です!
善想寺には
泥足地蔵(どろあしじぞう)と呼ばれる
珍しいお地蔵さんが安置されているんですよ。
お地蔵さんのお話はまた後ほどするとしまして
まずはお寺を簡単にご紹介しますね
善想寺は1542年(天文11年)に
想阿善悦(そうあぜんえつ)によって創建された浄土宗のお寺です。
山号は大悲山というそうです。
ちなみに善想寺という名前は
想阿善悦の法名の2字を取ってつけられたみたいですよ。
しかしその後、善想寺は
兵火によって焼失してしまいます
それを豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命により
現在の場所に再建したのが
想阿善悦の孫弟子にあたる法春なんですね。
では早速レポートしていきましょう
まず山門をくぐる前に
右手側を見ると・・・
地蔵堂があります!
こちらの地蔵堂の中に安置されているのが
冒頭でもご紹介しました
泥足地蔵なんですね
この泥足地蔵は1200年前に
伝教大師(でんぎょうたいし)最澄(さいちょう)が 一刀三礼(いっとうさんらい)し彫ったと言われています。
※一刀三礼とは、一刀を彫るごとに三度礼拝するという事です。最澄については、三千院の記事をご覧ください。
それにしても、このお地蔵さん
一体どうして
泥足地蔵なんて変わった名前で
呼ばれているんでしょうね~
その理由は
まだお地蔵さんが
滋賀県の坂本にあった頃の
あるエピソードに由来しています。
ある時、日照りが長く続き
坂本村の村人は田植えが出来ずに困っていたそうです
そこで作兵衛という農民が
日頃から信仰しているお地蔵さんに
「雨を降らせてくだせい!!」と
3日3晩雨乞いの祈願をしたところ
お地蔵さんが願いを聞き入れてくれたのか
祈願し始めてから3日後
とうとう雨が降ったそうなんです
待ち望んだ雨に喜んだ他の農民達は
急いで田植えをしたんですけれど・・・
肝心の作兵衛は
急な腹痛によって
田植えが出来ずにいたそうです
そんな作兵衛に代わって
村人達が田植えをしてやろうと
作兵衛の田んぼに行ってみると
不思議な事に田植えが終わった状態だったんですね~。
その後、お地蔵さんにお参りをしに行くと
なんとビックリ!!
お地蔵さんの腰のあたりから
足元まで泥がベッタリと
ついているではありませんか
作兵衛は
きっと自分の代わりに
このお地蔵さんが田植えをしてくれたに
違いないと思ったそうですよ
この話が村人達にも伝わり
いつしか泥足地蔵と呼ばれるようになったと
言われているんですね。
また、作兵衛の代わりに田植えを行ったということから
田植地蔵とも呼ばれるそうですよ。
なんとも不思議な話なんですけれど
実は不思議な話はこれだけじゃないんです
それは泥足地蔵が
1587年(天正15年)3月23日に
京都に移ってきた後のお話です。
時は江戸時代、1808年の事で
中京堺町に住む勘兵衛という男性が
妻の安産祈願に訪れた際
赤ちゃんが無事に産まれてくるように
一晩中祈願したそうです
その後、無事に産まれたという知らせが入り
安堵した勘兵衛が
お地蔵さんの顔をふと見ると
なんと!お地蔵さんの顔は
ぐっしょりと汗をかいていたんですね
これに勘兵衛は
「お地蔵さんが妻の代わりに苦しみを引き受けてくれていたんだ!」
と思ったんだそうです。
それ以来、泥足地蔵は
汗出地蔵(あせだしじぞう)とも
呼ばれるようになったというわけなんです。
田植えをした事も驚きなのに
出産の苦しみまで引き受けてくれるなんて
ビックリなお地蔵さんですよね
こういった不思議なエピソードが
善想寺のお地蔵さんにはいくつもあるんですよ。
ちなみに泥足地蔵は
毎月23日の日は、お地蔵さんの縁日という事で
ご開帳となり、見る事が出来ます
では泥足地蔵の名前の由来が
わかったところで
山門をくぐっていきましょう!
山門をくぐると右手には
本堂があります。
本堂には、ご本尊である
阿弥陀如来が安置されているそうです
そして境内の墓地には
平安時代時代後期のものと伝わる
石仏の阿弥陀如来がありました!
また、善想寺には
華道家元である池坊の
第32世2代目専好から
第42世までの歴代のお墓や
京都相撲の横綱『兜潟弥吉(かぶとがたやきち)』の
お墓もあるんですよ~
そんな善想寺の場所はコチラ↓
大きな地図で見る Tweet
雑談掲示板 新着