2013-08-20 | |
テーマ:神社 |
石井神社
今回ご紹介するのは・・・
石井神社です
こちらは、宮家の1つであった
賀陽宮家(かやのみやけ)にゆかりのある神社として知られています!
※今回ご紹介している石井神社は西賀茂(上賀茂神社の西側)に位置する神社です。同じ名前の神社は、この他にも西京区大原野にあるそうです。
起源についてご説明しますと
大正時代に、伏見稲荷大社のある稲荷山(いなりやま)に
石井稲荷大神の塚を創建した事が始まりとされ
1927年、当地に勧請されました
※伏見稲荷大社は、711年に渡来系民族で知られる秦氏(はたし)が稲荷山に鎮座した神を祀った事を起源とする神社です。このように稲荷山には様々な神が祀られているんですね。詳しくは秦氏ゆかりの地巡りの記事をご覧下さい。
ちなみに稲荷山には
現在も石井社(石井大神)と呼ばれる社があります。
ご利益は健康長寿、そして医学技術向上のご利益があるそうですよ。
手水鉢です。
先ほどもご説明した通り
現地に勧請されたのは1927年で
由緒書きによると『八木トメ』という女性によって
勧請されたと伝わります。
以後、石井神社の建つ小山元町(こやまもとまち)の氏神社として
地域の住人より、崇められるようになりました。
そんな石井神社は別名『石井稲荷神社』とも言われ
祭神には、宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)や
石井稲荷大神などが祀られています。
宇迦之御魂大神は『稲荷大明神』とも言われ
全国の稲荷神社に祀られている神様です。
穀物の神様としても崇敬され、五穀豊穣などのご利益があるんですよ
※稲荷神社でよく見かける『狐』は宇迦之御魂大神の神使(しんし・神様の使い)とされています。
こちらが拝殿です、この奥に本殿があります。
この他、宮家の1つであった
賀陽宮家からの信仰が篤く
1930年には、賀陽宮の大妃殿下(だいひでんか・先代の王の妃)が参拝し
昭和天皇の皇子誕生を祈願したと伝わります。
ちなみに、その3年後(1933)に今上天皇(現在の天皇陛下)がお生まれになりました。
先ほどご覧いただいた拝殿は賀陽宮家より
寄進されたものだそうで
この他にも、賀陽宮家の守護神とされている
叢雲明神(むらくもみょうじん)が末社として祀られています
そんな石井神社とゆかりの深い
賀陽宮家について、ご説明させていただきますと・・・
明治期に創設された宮家で
いわゆる太平洋戦争の終戦後、臣籍降下(しんせきこうか・皇籍離脱)となりました。
創設したのは邦憲王(くにのりおう)という人物で
もとは久邇宮家(くにのみやけ・宮家の1つ)の当主でしたが
病を患っている事を理由に、家督を弟に譲り
一家で京都に移住し、明治天皇に勅許を得て『賀陽宮』を創設しました
※ちなみに、この賀陽宮(かやのみや)という名前は、邦憲王の父親『久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)』の宮邸に植えられた榧(かや)の老木に由来するものだと言われています。
本殿左手奥にも末社が建っています。
こちらもその1つです。神社の由緒書によると『寿賀明神』『石生大神』『白良仙』『天龍王』といった神々が末社には祀られているようですが、お札が無い為、どれがそれに該当するのか不明です。
しかし、その後
賀陽宮家は2代目である『恒憲王(つねのりおう)』の時に臣籍降下となります。
彼は国際親善に努めていた事で知られ
若い頃から、アメリカやエジプトを訪問していたそうです
アメリカとの戦争には反対を唱え、開戦した時から
「いずれ日本は負け、我々は皇族ではなくなるであろう。」と
早い段階から、説いていたそうです。
※これは恒憲王が、アメリカ訪問において国力の差を事前に痛感していた事によるものだそうです。
陸軍士官学校そして陸軍大学校を卒業した後
彼は戦争に参加する事となりますが
この際も、早い段階から
戦争終結の聖断(天皇による決断)を昭和天皇に求めたと言われています。
その後、敗戦を迎えると
責任を取って、皇室を離脱する事を主張したと言います。
こうして結果的に
賀陽宮からは当主である恒憲王を筆頭に
王妃や皇子、合わせて8名が皇籍離脱となりました。
恒憲王は穏和な性格で、皇族でなくなってからは
質素な生活を送っていた事から
『平民的な宮様』として国民に慕われたそうですよ
そんな賀陽宮家ゆかりの神社である
石井神社の場所はこちら↓
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