2010-08-19 | |
テーマ:お寺 |
海宝寺
今日はズバリっ。
ま、、まさかこの男が京子ブログに登場すると
予想した人もいらっしゃらなかったと思いますっ
「その男、独眼竜につき。。」
そうです
今回は、伊達政宗ゆかりのお寺である
海宝寺(かいほうじ)
伊達政宗と
海宝寺にどんな関係があるのでしょう
実は、この海宝寺が建っている場所は、安土桃山時代に
豊臣秀吉から伊達政宗に屋敷地が与えられた場所で
なんと現在の住所も
「京都市伏見区桃山町政宗20」
と、政宗の名前が残るゆかりの場所なんですね
その後、時は流れ徳川8代将軍吉宗の時代に開宝寺という名前で建てられ、後に伊達政宗屋敷跡に転移し名前を「海宝寺」と改めたそうです。
ちなみに、秀吉から屋敷が与えられた際には
この場所にどんな人が住んでいたかというと
伊達政宗の重臣や妻子など
その数1000人以上
を住まわせていました。
屋敷を中心とした一帯は「伊達町(だてまち)」とも呼ばれていたそうで伊達政宗本人も屋敷を与えられた1595年から1599年頃までと1601年に上洛した際も1年間ほど過ごしたそうですよ~っ。
ちなみにこの海宝寺の前の道は
伊達街道とも呼ばれています。
この場所の他にも近いところに2箇所、別の屋敷もあったそうで
こちらも地名に伊達の名前が残っていて
それぞれ
「深草東伊達町(ふかくさひがしだてちょう)」
「深草西伊達町(ふかくさにしだてちょう)」
と呼ばれてるそうです
うーん、政宗もこれだけ今でも自分の名前が町名に残っていたら
あの世でとっても嬉しがっているでしょうね~っ。
さて、ここで皆さんは、伊達政宗というと
どんなイメージがあるでしょうか
真っ黒の鎧に身を包んだ武士で、
性格はというと
織田信長となんとなくイメージの被る
「堅物」で「硬派」なイメージではないですか??
でもでも、残っている資料などから推測される人物像は
実は・・・
ヨイショの上手い、ズル賢い人だったんですね。
時の権力者の間を巧みに生き抜き絶対俺が天下を取ってやると、腹では思っており一目置かれていた人物なんです
こちら堂内には本尊である聖観音菩薩を祀っています。
聖観音菩薩
織田信長の天下統一を目前にした1567年、米沢城主の長男として伊達政宗は生まれます。
5歳の頃に天然痘にかかり、右眼を失明しちゃいます。
ちなみに、ご存知の「独眼竜」という言葉。
これってどこから来たかというと
中国の指導者で、同じように片目の見えない李克用(りこくよう)という人物が「独眼竜」と呼ばれていたようで政宗はその人物に習い真似たと言われています。
ちなみに全身真っ黒の鎧も、李克用に習ったそうなんです。
「おぉ・・おれと同じハンデを持ちながらも
強く生きた先人がいたんだ!!
この人リスペクトするっきゃないぜっ」
(・∀・)ノと伊達政宗は思ったんでしょうね。
しかし、彼が幼い頃に片目を失った事によって母親は弟にだけ愛情を注ぐようになり・・・息子の政宗を毒殺しようとするなど
なかなか家庭環境は複雑だったようです
さて、そんな毒殺されそうになった事件というのが
豊臣秀吉の天下取りの最後の仕事「小田原征伐」の時だったんですね
全国統一を目論む秀吉は当時、伊達政宗と対立関係にありました。
秀吉の全国統一の壁として立ちはだかっていたのが
徳川家、北条家、そしてこの伊達家。
ご存知の通り・・・徳川家がまず豊臣に寝返り、残されたのが北条家と伊達家だったんです
伊達政宗が植えたとされる樹齢約400年の木斛(モッコク)の木
天下統一寸前、小田原城で北条家の征伐に出かけた秀吉は伊達家にも呼び出しをかけます。
じつは伊達家は北条家とも仲が良く、同盟を結んでいました。
その北条家が秀吉に攻めいれられ
今にもギブアップ寸前。。。
ついでに、秀吉は伊達家にこんな風に言います。
「おーい、伊達さんよぉ。今から北条家も倒すし、お前も、一緒に手伝わなければ知らんでぇ!・・・おっちゃん怖いでぇ。」
・・・つまり、脅しですよね( ´Д`)
これにガクブル状態の伊達家。
伊達家ではこの時、母親が政宗に毒を盛り殺そうとしたんですね。そして、毒殺した後政宗の首を秀吉に差し出し、許しを乞い政宗の弟に以後、伊達家を守らそうとしたんです。
ちなみにこの計画、実は政宗の弟の方が発案者だったなんて言われていて・・結果、弟を政宗が斬っちゃったそうです
毒殺を政宗はなんとか回避しましたけれど
そんなこんな家のゴタゴタがあり、気付くと・・・
秀吉の呼び出しから小田原に伊達政宗がやって来たのは
( ´Д`)なんと一ヵ月後(汗)
伊達政宗は
「わー、多分・・秀吉さん絶対めちゃ怒ってるよ。
やべぇなぁ。きっとカンカンっしょ
どうにかして許してもらう方法ないかなぁ?」
何か、アイデアを練らねば・・
ポク
ポク
ポク
(・∀・)ノチーン
と、思いついた伊達政宗
なんと、小田原での秀吉との謁見の際に、なんと
どどーんと、白装束姿で秀吉の前に参上!!!
それを見た秀吉は・・あっぱれ♪と納得。
「もう少し遅れて来てたら首が飛んでるところやぞ!」
と言って殺されずに済みます。
海宝寺は伏見の行商人であった百貨店「大丸」の創始者、下村彦右衛門との縁も深く大丸関係者の位牌を祀っている建物もありました。
そんな窮地を、アイデア一発で乗り越えちゃった伊達政宗。
秀吉に取り入れられながらも
虎視眈々と天下統一を諦めていませんでした
しかし、
裏でコソコソ動いていた所・・・なんと秀吉に見つかっちゃいます
秀吉から
「コラァ!政宗!なんか裏でコソコソやっとるらしいやないか!
こっちは証拠あんねんぞぉ。
ちょい、ツラ貸さんかい!!
ホンマの事言わんかったら知らんぞ。
おっちゃん怖いでぇ。」
・・・と、またしても秀吉に言われてしまいます
怒られちゃった伊達政宗。。
今度こそ絶対にピンチだと思ったでしょう。
秀吉の話によると
政宗謀反の証拠として
密書が見つかったそうです。
その密書に、しっかりと
政宗のサインである鶺鴒(せきれい)という鳥のハンコが押してあったんですね
・・・とうとうバレちゃった政宗は
このピンチを乗り切る為にまたしてもアイデアをひねります
ポク
ポク
ポク
(・∀・)ノチーン
「殿!これは私(政宗)の本物のサインではありませんぞ!
以前から偽造の対策として私が押した鶺鴒の目には
針で穴を開けておるのです!」
と言います。そして
「この穴は、私しか知らぬ事。
どうですか?この密書の鶺鴒の目に穴が空いてないでしょう?
つまり、この密書自体が私の筆跡を真似た
ニセモノは明らかでござる!!」
それを聞いた秀吉・・・
以前に政宗から送られた手紙を見ると
確かに穴が空いているじゃありませんか
つまり、政宗はいつか秀吉にバレた時の為に
二重の策をとっていたんですね。
またしてもピンチ脱出の政宗。
ここまで来たら、もうアッパレですね(汗)
結果、秀吉に許してもらう事に成功しちゃうんです。
魚板(ぎょばん)という木製の魚。木魚の原型とも言われているそうです。
海宝寺の方丈の手前には豊臣秀吉遺愛の手水鉢があるという事だったんですけど・・コレでしょうか?
それだけじゃまだまだ終わりません、ミスター独眼竜!
さらに世渡り上手な秘話がっ。
みなさんもご存知・・
秀吉の「朝鮮出兵」
この頃も、まだ政宗の腹の中では「秀吉を倒し、俺が天下とってやる!!」と考えていたのでした。
しかし朝鮮出兵により、秀吉から収集がかかり朝鮮に渡らなければいけなくなりました。
秀吉に従い自らの軍を率いて朝鮮に行けば
向こうの敵と最前線で戦う事になり
自分の家来を多数失う事に・・・
おまけにお金もどんどん使わなくてはいけない。
政宗にしてみれば本当の敵は秀吉のハズなのに
つまり、ぶっちゃけ・・・朝鮮に行きたくない(汗)
そこでまたしても政宗は考えます。
ポク
ポク
ポク
(・∀・)ノチーン
朝鮮出兵に伴い、いよいよ出発の時。
秀吉に呼ばれ上洛した伊達政宗チーム。
な・・な・・・なんと
その格好はキラキラと輝く絢爛豪華な数千の軍勢で颯爽と登場したのです
これを見た京都の住民も見事さに歓声を上げフィーバー状態っ。
※一説には「派手」「豪華」「格好良い」「魅力的」な姿の男性を伊達者や伊達男と呼ぶのはここから来ているそうです。
「伊達チームってカッコいいね♪」
「雅やわぁ、伊達さんたちって♪」
と、京都の人が認めるその華麗な一団は
派手好みの秀吉もひと目で気に入り
「うむむ、見事じゃ。このような部隊は是非、ワシの側に置きたい」
と思ったそうです。
つまり
損害を受けやすい最前線への配置を避けるように計算した伊達政宗のアイデアだったんですね
うーん、やっぱり世渡り上手だ・・・政宗。
ちなみにこちらの海宝寺は、普茶料理(中国の精進料理)の寺として有名で予約すれば食べられるそうです。
どうでしょうか
皆さんの伊達政宗のイメージも少し変わったのではないでしょうか
結局、天下統一はなりませんでしたが
様々なアイデアで自らを守り、何度もピンチを潜り抜けた伊達政宗。
そんな彼が守った伊達家の末裔に・・・
サンドウィッチマン「伊達みきお」さんがいます
ちなみに、みきおさんの家族にはデビュー当時
伊達家の末裔であるから、本名は名乗るな・・と言われたそうです(汗)
( ´Д`)もういいぜ!
そんな海宝寺の場所はコチラ↓
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