今回ご紹介するのは
京都市右京区の妙心寺(みょうしんじ)の境内にある
寿聖院(じゅしょういん)です!
寿聖院は、臨済宗(りんざいしゅう)妙心寺派のお寺です。
1599年(慶長4年)に石田三成(いしだみつなり)が
父の石田正継(いしだまさつぐ)の
菩提寺として創建したのが始まりなんだそうですよ
第57回「京の冬の旅」の寿聖院の看板。
寿聖院という名前は
正継の法名から取られています
三成と言えば、頭脳明晰で
役人気質な人ってイメージがありますよね
豊臣秀吉(とよとみひでよし)の元で頭角を現し
豊臣政権末期には政権運営をサポートする
五奉行(ごぶぎょう)の1人として
行政部門を担当しました
秀吉が亡くなった後は
五大老の徳川家康(とくがわいえやす)に反発し
挙兵をすることになりました
しかし、1600年(慶長5年)9月15日に
関ヶ原の戦いで家康率いる東軍に敗れ
捕縛された後、処刑されてしまいます。41才の生涯でした
さて、そんな三成が建てた寿聖院は
創建当時、今よりも4倍の広さがあったというんですね~。
寿聖院の周囲には、堀と土塀がめぐらされ
客殿の軒先は金箔瓦で葺きあげられていたといいますから
かなり絢爛豪華なものだったように思います
しかし、三成が関ヶ原の戦いで敗れた後
縮小を余儀なくされ、現在の
4分の1の大きさになってしまったんだそうです。
建物は一度全部壊されたようですけれど
後に再興され、現在に至っています。
では、早速中に入っていきましょう♪
まずこちらの正面に見えますのは
山門になります。
寿聖院の山門です。
山門の右にある石碑には
「石田三成一族菩提所」と刻まれています。
「石田三成一族菩提所」と刻まれた石碑です。
山門をくぐって中に入ると目の前には
客殿がありました。
寿聖院の客殿です。
そして客殿の右隣りに本堂があります。
本堂は、創建当時の書院であったようです。
寿聖院の本堂です。
こちらは本堂正面にある
狩野永徳(かのうえいとく)作と伝わる庭園です。
狩野永徳作と伝わる庭園です。
写真ではわかりにくいんですけれど
真ん中に瓢箪池(ひょうたんいけ)があります。
秀吉の馬印である瓢箪にちなんで作られたそうですよ。
本堂内には、絵師・村林由貴さんによる
襖絵を見ることができました。
写真は撮れなったんですけれど
第57回「京の冬の旅」の寿聖院の看板に
使われていましたので、こちらをどうぞ。
絵師・村林由貴さんによる襖絵です。
真ん中は「風浪双鯉図(ふうろうそうりず)」
手前は「夏秋豊楽図(かしゅうほうらくず)」です。
また、本堂内には三成の父である
石田正継(いしだまさつぐ)を描いた
石田正継像がありました。
この石田正継像は土佐光信(とさみつのぶ・室町時代の絵師)
または、その一派によって描かれたと伝わっています。
正継は、関ヶ原の戦いの際に西軍につき
近江国坂田郡(現在の滋賀県彦根市)にあった
佐和山城を守っていました。
しかし、西軍の敗北が決定的になると
東軍の猛攻に合い、領民を逃した後
自刃したと伝わっているんですね。
客殿の前には墓地があるんですけれど
こちらには石田三成をはじめ父の正継や
その子の石田正澄(いしだまさずみ)ら
石田一族9人の供養塔が並んでいます。
石田一族9人の供養塔です。
最後に三成の有名なエピソードを紹介して
この記事を終わりたいと思います。
三成が関ヶ原の戦いに敗れ捕縛された後
京の町を引き回しにされました。
その際に、三成は喉が渇いたため
警護の人間に飲み物を求めたといいます。
しかし警護の人間は水を持っておらず
代わりに果物の柿を手渡されたというんですね。
三成はその時
「柿は胆の毒(腹を冷やす)なので、いらない」
と言ったそうです。
それを聞いた警護の人間は
これから処刑される人間が
身体の心配をしているなんておかしな話だ
とからかったというんですね。
このエピソードは、三成が最後まで生きることを
あきらめなかったことを示しています。
往生際が悪いといった意見もあるそうですが
最後まであきらめないからこそ
活路が見いだせるというものなんじゃないでしょうか。
三成の精神力の強さがよくわかりますよね。
ちなみに三成は、柿が大好物だったようです。
ということで今回は石田三成が
父・正継のために建てた菩提寺の
寿聖院を紹介しました。
寿聖院の場所はコチラ↓