今回ご紹介するのは
京都市東山区の祗園(ぎおん)にある
有楽稲荷大明神(うらくいなりだいみょうじん)です!
有楽稲荷大明神は
祇園の花街にある、お稲荷さんで
通称『織田稲荷(おだいなり)』とも
呼ばれているんですね~
有楽稲荷大明神の周辺の様子
と、言いますのも
こちらの有楽稲荷大明神がある辺りは
織田信長(おだのぶなが)の実の弟で
大名茶人でもあった織田有楽斎
(おだうらくさい)の屋敷跡だったんです
つまり!有楽斎にちなんで付けられた
ネーミングというワケです
有楽稲荷大明神の額
また、正伝院
(しょうでんいん)という
お寺があった場所でも
あるというんですね
ちなみに正伝院もまた、有楽斎が
再興したお寺だったりするんですよ
その正伝院は現在
永源庵(えいげんあん)と合併し
正伝永源院(しょうでんえいげんいん)と
なっています
※正伝永源院について詳しくは、正伝永源院の記事をご覧下さい。
ここで織田有楽斎についてご紹介しますと・・・
織田有楽斎は、織田信秀(おだのぶひで)の
十一男として生まれ、織田長益
(おだながます)といいました。
目立った武功はそれほど無く
後生、茶人として生きた事から
兄の信長とは対照的な人物だったと
言えるんですね~
ちなみに有楽斎は
千利休(せんのりきゅう)の弟子で
『利休十哲(りきゅうじってつ)』
の1人に数えられているんですよ♪
有楽稲荷大明神の提灯
1582年(天正10年)6月2日に起こった
本能寺の変(ほんのうじのへん)で
兄の信長が討たれた際
信長の嫡男で、甥にあたる信忠(のぶただ)と供に
二条城で明智軍に襲われたんですけれど
有楽斎は城を脱出し、近江安土から
岐阜へと逃げ延びる事に成功しました
けれどこの時、戦で戦死しようとしていた信忠を
わざわざ思い止まらせて自害させたのに
自分だけは生き延びたという事から
「織田の源五(有楽斎の通称)は人ではないよ
お腹召させておいて われは安土へ逃げる源五
六月二日に大水出て織田の源なる名を流す」
と京都の人々には、臆病者と皮肉られたそうです
そんな有楽斎なんですけれど
その後は、徳川家に仕え
1603年(慶長5年)9月15日に起こった
関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)では
なんと武功を上げているんですね
そして1614年(慶長19年)の『大坂冬の陣』には
大阪城内にて淀殿(よどどの)や
豊臣秀頼(とくがわひでより)の
サポートをしたんですけれど
後に豊臣陣営の強硬派と対立し
1615年(慶長20年)の『大坂夏の陣』を前に
豊臣家から離れ隠居する事となり
茶の湯三昧の生活を送ったという事です
さて、有楽斎にちなんで名付けられた
有楽稲荷大明神のご利益は
『楽しみが有る』という
有楽斎の名にちなんで
芸能や商売繁盛なんだそうです
有楽稲荷大明神
お近くに来られた際には
お参りしてみてはいかがでしょうか
という事で今回は信長の弟で茶人でもある
織田有楽斎の屋敷跡にある
有楽稲荷大明神をご紹介しました
有楽稲荷大明神の場所はコチラ↓