今回ご紹介するのは
京都市右京区の花園(はなぞの)にある
妙心寺(みょうしんじ)の塔頭寺院
天球院(てんきゅういん)です!
天球院は、妙心寺の48ある塔頭の1つで
『妙心寺四派(しは)』の
『東海派(とうかいは)』の寺院です
※妙心寺四派とは、東海派、霊雲派(れいうんは)、龍泉派(りょうせんは)、聖澤派(しょうたくは)の事で、妙心寺の塔頭や末寺は、この4系統に分かれます。妙心寺の中興開山である雪江宗深(せっこうそうしん)の優れた4人の弟子それぞれが開祖となりました。
妙心寺北門から入って西側に位置する
場所にあるんですよ~
こま札
1631年(寛永8年)、姫路城城主であった
戦国武将、池田輝政(いけだてるまさ)の妹
天久院(てんきゅういん)が
江山景巴(こうざんけいは)を開山に迎えて
創建したと伝わっているんですね~
天球院と書かれています。
ちなみに天球院という名前は
造営の際に地中から、いくつもの『球』を
掘り出した事にちなんでの事なんだそうです
球が出てきた事が吉兆だと考えたワケですね!
さて、その天久院という人物
天久院と名乗る前は、どのような名前だったか
詳しくわかっていないそうなんですけれど
一時は、因幡国(いなばのくに:現在の島根県)の
若桜藩(わかさはん)初代藩主であった
山崎家盛(やまざきいえもり)の正室となっていました
家盛は、天下分け目の関が原の戦い
(せきがはらのたたき)の際
義理の兄、輝政の正妻となっていた
徳川家康(とくがわいえやす)の娘や
自分の側室と、その子供達を密かに
安全な場所に移したんですけれど
肝心の天久院の事を、ほったらかしにしていたんですね
いえいえ、それどころか
西軍の石田三成(いしだみつなり)の元に
自分の身代わりの人質として
天久院を差し出そうとしたといわれています!
天球院境内、「暗」と刻まれた石碑
当然、これには天久院も激怒しました!
だって、あまりにも扱いが違い過ぎますもの
天久院は、この時
離縁(りえん)を決意して
家盛の喉元に短刀を突きつけ
今回の酷い扱いを謝らせた後
城を飛び出し、当時、吉田城にいた兄
輝政の元へと戻るんですね
さて、そんな豪胆(ごうたん)な一面を見せた
天久院なんですけれど、実は彼女
豪胆なだけでなく、力の方も相当なもので
なんと『100人力の怪力』の
持ち主だったと、いわれているんですよ~
天球院境内、「明」と刻まれた石碑
ある時、吉田城に刀を持って暴れている
乱心者が現れたそうなんですけれど
その際、彼女は、袴(はかま)の裾(すそ)をまくって
頭に鉢巻(はちまき)を巻き
手には大長刀(おおなぎなた)という
勇ましい、いでたちで現れ
乱心者の前に仁王立ちで
立ちふさがったというんですね
乱心者は、あまりにも勇猛な彼女に慌てて
逃げ出したそうなんですけれど
それを彼女は追いかけて、手に持っていた
大長刀を車輪のように振り回し
バッサリと斬ってしまったそうです
また、吉田城で若い女性が化け猫に
何人も連れ去られる事件が相次いだ際にも
やってきた化け猫を素手で何度も殴り
返り打ちにしたと伝わっているんですね~
※これらの逸話は近世奇談集成の「老媼茶話(ろうおうさわ)」に掲載されています。
それではちょっと前置きが長くなってしまいましたけれど
天球院の中に入っていきましょう
山門
こちらの山門をくぐると
長い参道があり、右手には庫裏(くり)があります!
庫裏(くり)
庫裏というのは
お坊さん達が食事の支度等を
するのに用いられる
場所の事なんですよ~
その庫裏の前には、黄色い梅の花を咲かせる
黄梅(おうばい)がありました~
黄梅(おうばい)
ちょうど見頃となっていたんですね~♪
他の参詣者の方もしきりに写真を撮っていましたよ
玄関
そしてこちらの玄関を通ると
そこには華頭窓(かとうまど:または、火灯窓)があります!
華頭窓(かとうまど:または、火灯窓)
華頭窓というのは、禅宗の建築様式として
中国から伝わったもので
炎の形をしているのが特徴なんですね
けれど、『火』という字は
ちょっと縁起が悪そうなので
『火』の代わりに『華』という字を
当てているといわれています
そしてこちらが方丈になります。
南庭から見た方丈
方丈内には、京狩野
(きょうかのう)の祖といわれる
狩野山楽(かのうさんらく)や
その娘婿の狩野山雪(かのうさんせつ)が
手がけたと伝わる障壁画が
襖絵(ふすまえ)、杉戸絵(すぎどえ)等
152面もあるんですね~
方丈南庭
ちなみに方丈内は写真撮影が
禁止となっていましたので看板の
『梅に遊禽図(うめにゆうきんず)』
を写真に撮りました
梅に遊禽図(うめにゆうきんず)
くねくねとS字型に伸びた梅の枝が特徴的ですよね
この他にも方丈には、3匹の虎と
1匹の豹(ひょう)が竹林の中に描かれた
『竹虎図(たけとらず)』や
朝顔と鉄線の花を描いた
『籬草花図(まがきそうかず)』等
金地に描かれた金碧障壁画
(きんぺきしょうへきが)が
たくさんありましたよ~
ちなみに竹虎図の中で
1匹だけ豹が描かれているのを
不思議に思いませんか?
ガイドさん曰く、これには理由がありまして・・・
当時、日本に虎がいなかった為
本物の虎を誰も見た事が無く
虎を描く際には、虎の毛皮を持ってきて
猫に被せて描いたといわれています
虎の本物を見た事が無いので
豹の毛皮を虎のメスのものと勘違いをし
虎のメスとして描いたというワケです!
こういった経緯を知った後で虎を見てみると
どことなく猫っぽい印象がしましたよ
その他、天球院には
血天井(ちてんじょう)がある事でも
知られているんですね
血天井とは、伏見城の遺構で
関ヶ原の戦いの前哨戦とも言える戦い
『伏見城の戦い(ふしみじょうのたたかい)』
で敗れた武士ら1200余が割腹をして果てた時に
残った血痕が染み付いた天井の事です
※血天井について詳しくは、京の血天井めぐりの記事をご覧下さい。
という事で今回は妙心寺の塔頭寺院である
天球院をご紹介しました
天球院の場所はコチラ↓