京都市左京区の岩倉(いわくら)にある
長谷八幡宮(はせはちまんぐう)の
御火焚祭(おひたきさい)です!
長谷八幡宮の御火焚祭は
毎年11月28日の夜に行われていて
五穀豊穣(ごこくほうじょう)に
感謝すると共に
無病息災や家内安全等
お願い事の書かれた護摩木を
お焚き上げするというものなんですね
ちなみにお火焚は
旧暦の11月頃に神社やお寺
民間等で行われている火祭の事で
主に関西を中心に行われています
神楽(かぐら)の際に焚く
篝火(かがりび)の庭燎(にわび)や
秋に取れた収穫物に感謝する収穫祭の
新嘗祭(にいなめさい)が起源といわれ
御神酒や米等をお供えして火を焚き
五穀豊穣に感謝すると共に
火の霊力で罪穢れ(つみけがれ)を祓って
願い事を祈願したりするんですね
ちなみに神社で、お火焚をする場合には
社殿の前に願い事の書かれた
火焚串(ひたきぐし)や
護摩木(ごまぎ)等を
井桁(いげた)のように組んで
お炊き上げをするのが一般的なんですよ
場所によっては、お神楽(かぐら)や
湯立神事(ゆたてしんじ)が行われたり
火が衰えてきた火床にミカンや
饅頭(まんじゅう)を投げ入れ
参拝者に授与したりするんですね。
ここで長谷八幡宮についても
簡単にご紹介しますと・・・
長谷八幡宮
由緒書によれば、長谷八幡宮は
857年(天安元年)に文徳天皇
(もんとくてんのう:第55代天皇)の
第一皇子、惟喬親王
(これたかしんのう)の願いによって
弟にあたる第四皇子で後の
清和天皇(せいわてんのう:第56代天皇)の
惟仁親王(これひとしんのう)を
勧請(かんじょう)し、その後
仁徳天皇(にんとくてんのう:第16代天皇)を
勧請したのが始まりとされています
※勧請とは、神様の分霊をお迎えしてお祀りする事。
ちなみに惟喬親王は、本来であれば
皇太子になる予定だったのですけれど
弟の惟仁親王に皇位を奪われてしまうんですね
皇位を失った後は各地を転々とし
轆轤(ろくろ)を使ったお茶碗などの作り方を
村人に教えていたのが全国に伝わった事から
木地師(きじし)の祖といわれています
※詳しくは、お火焚祭 2012(守谷神社・富士神社)の記事をご覧下さい。
そんな惟喬親王が建てた長谷八幡宮は
京都御所から見て鬼門である
艮(うしとら:東北)の方角に当たる事から
国家鎮護の社としてお祀りされたそうですよ!
ちなみに鬼門の方角を
『艮(うしとら)』というのは
方角を十二支で表現した場合に
『丑(うし)』と『寅(とら)』の
間の方角に当たるからなんですね
では、裏鬼門はどうなのかと言いますと
『未(ひつじ)』と『申(さる)』の間で
『坤(ひつじさる)』と言います!
また、『辰(たつ)』と『巳(み)』の間を
『巽(たつみ)』
『戌(いぬ)』と『亥(い)』の間は
『乾(いぬい)』と言うんですよ
少し話が脱線してしまいましたけれど
早速、レポートしていきましょう
※写真は過去のものを使っています。
午後19時頃、長谷八幡宮の境内に着くと
本殿の前には藁(わら)を束ねて
作った火床がありました
長谷八幡宮の火床
おそらく今年収穫された稲から取った
藁で作られているんでしょうね
しばらくすると本殿で神事が始まり
まずはお火焚の火床をお祓いします
火床のお祓いをしている様子
そして本殿に神様へのお供えものである
神饌(しんせん)がお供えされるんですね
本殿神事
この時、本殿だけで無く
境内の摂末社にも御供(ごくう)が
お供えされます
こちらの御供は、お餅やほうれん草
ミカンにイワシといったものでした♪
御供(ごくう)
そして本殿で宮司による
祝詞(のりと)を奏上(そうじょう)し
本殿前に用意された火床に
火を点けるんですね~
祝詞奏上(のりとそうじょう)
ちなみに長谷八幡宮では
火を点けた藁の倒れ具合で
来年が豊作かどうかを
占っているんだそうですよ
お火焚
その後、再び本殿前で
玉串による拝礼である
玉串奉奠(たまぐしほうてん)等を行い
各摂末社でも拝礼をして
長谷八幡宮の御火焚祭が
無事にお納めされました
藁の倒れ具合で来年の吉凶を占う
という事で今回は
岩倉にある長谷八幡宮の
御火焚祭をご紹介しました
長谷八幡宮の場所はコチラ↓