今回ご紹介するのは
京都市山科区にある
![元慶寺(がんけいじ)](2015/08/13/01/2015-08-13-1.jpg)
元慶寺(がんけいじ)です!
元慶寺は、華頂山(かちょうざん)と号する
天台宗のお寺で
通称『花山寺』ともいわれています
花山天皇(かざんてんのう:第65代天皇)が
藤原兼家(ふじわらのかねいえ)と息子
道兼(みちかね)の策略によって
19歳の時に出家、得度したお寺として
知られているんですね~
その事については
また後ほど、触れるとしまして
まずはお寺について簡単に
ご紹介していきましょう♪
元慶寺は平安時代の869年(貞観11年)に
後の陽成天皇(ようぜいてんのう:第57代天皇)である
貞明親王(さだあきらしんのう)の誕生に際して
三十六歌仙の1人である遍照(へんじょう)が発願し
清和天皇(せいわてんのう:第56代天皇)の女御
藤原高子(ふじわらのたかこ)が
創建したと伝わっているんですよ
創建当初は、華山寺と
称していたそうなんですけれど
877年(元慶元年)に
お寺の名前を当時の年号から取って
元慶寺と定めました。
![本堂の元慶寺と書かれた額](2015/08/13/01/2015-08-13-4.jpg)
本堂の元慶寺と書かれた額
室町時代、1467年(応仁元年)に起こった
応仁の乱(おうにんのらん)で
お寺は荒廃したんですけれど
その後、安永年間(1772~1781年)に
再建されて現在に至るという事です
それでは早速、中に入っていきましょう
![山門](2015/08/13/01/2015-08-13-1.jpg)
山門
こちらの中国風の山門には
仏教の守護神である梵天(ぼんてん)と
帝釈天(たいしゃくてん)が
かつて安置されていたんですけれど
現在は、京都国立博物館に
寄託されているそうです
![境内](2015/08/13/01/2015-08-13-2.jpg)
境内
その山門をくぐって境内
左手には本堂があります!
![本堂](2015/08/13/01/2015-08-13-3.jpg)
本堂
本堂には、ご本尊である
薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)が
安置されている他、遍昭の木像が
安置されているそうです
こちらは本堂の左にある
遍昭と素性法師(そせいほうし)の歌碑です。
![遍昭と素性法師(そせいほうし)の歌碑](2015/08/13/01/2015-08-13-8.jpg)
写真左が遍昭の歌碑、右が素性法師の歌碑
そしてその本堂の右前に
『人皇六拾五代 花山院法皇
御落飾道場(ごらくしょくどうじょう)』
と刻まれた小さな石碑が建てられていました
![「人皇六拾五代 花山院法皇 御落飾道場」と刻まれた石碑](2015/08/13/01/2015-08-13-5.jpg)
「人皇六拾五代 花山院法皇 御落飾道場」と刻まれた石碑
御落飾とは、高貴な人が
剃髪して仏門に入る事を意味しますので
これは元慶寺が花山天皇の
出家したお寺という事ですよね。
冒頭でも触れましたように
花山天皇は、藤原兼家と道兼の
親子の策略によって
出家をさせられてしまうんですね
兼家は政治の権力を握る為
自分の娘の詮子(せんし、あきこ)が産んだ
懐仁親王(やすひとしんのう)を
早く即位させて、摂政(せっしょう)に
なりたいと考えていました
※摂政とは、天皇が女性の時や天皇が病気の時、天皇が子供の時に、天皇に代わって政治を取り仕切る役職です。
その為に、どうにかして花山天皇から
懐仁親王に譲位してもらう必要があるんですね。
そこで兼家は一計を巡らし
花山天皇を出家させるという方法を
実行に移します!
どういう事なのかと言いますと・・・
花山天皇には、身重の女御
藤原忯子(ふじわらのよしこ)が
いたんですけれど
出産前に死去してしまったんですね
天皇がその事に随分悲しんでいたところに
兼家が蔵人(くろうど)であった息子の
道兼を使って出家するように促したというワケです!
※蔵人は、天皇からの命令を伝達する秘書のような役職です。
天皇は信頼していた道兼に
「道兼も共に出家するというのなら」
という約束でなんと![](../emoji/bikkuri04.gif)
6月23日の夜も明けきらぬ深夜
道兼はかねてより準備していた通り
天皇を内裏から密かに抜け出させる事に成功!
途中、天皇が思い留まるんですけれど
そこを何とか道兼が説得して
元慶寺に連れてきました
一方、宮中では兼家が
所持している事が皇室の正統な帝の証しとなる
三種の神器(さんしゅのしんき)を
清涼殿(せいりょうでん)から
懐仁親王のいる凝華舎(ぎょうかしゃ)に
移して門を閉め
懐仁親王即位の準備を進めています。
天皇を元慶寺に連れてきた道兼は
自分も一緒に出家すると約束しておきながら
「やっぱり父に内緒で出家するのは
良くないので、出家前に父に会ってきます!
すぐに戻ります!」
![](../emoji/bye02.gif)
天皇はこの時、騙された事に気がつくんですけれど
もう後の祭です!
道兼は戻ってくるはずもありません!
その日、懐仁親王は即位して
一条天皇(いちじょうてんのう:第66代天皇)となり
その外祖父であった兼家が
待望の摂政となるんですね
この一連の事件を
寛和の変(かんなのへん)と言います。
騙された花山天皇なんですけれど
その後は厳しい修行をし、廃れていた
西国霊場巡礼を復活させた事で
西国霊場中興の祖といわれます
この事から元慶寺は
西国三十三ヶ所霊場の番外札所と
なっているんですね♪
お寺には花山法皇の宸影を
安置しているそうですよ
ちなみに花山天皇を連れ出した道兼は
その後どうなったのかと言いますと・・・
兄の道隆(みちたか)が亡くなった際に
関白になったそうなんですけれど
関白になって数日後に病死しました
その為、道兼の事を
『七日関白(なのかかんぱく)』
と呼んだりします。
さて、最後にご紹介するのは
元慶寺の境内を出て
10分程歩いた先にある遍昭のお墓です
![「桓武天皇 皇孫 遍昭僧正御墓」と刻まれた石碑](2015/08/13/01/2015-08-13-7.jpg)
「桓武天皇 皇孫 遍昭僧正御墓」と刻まれた石碑が建っています。
という事で、今回は花山天皇ゆかりのお寺
元慶寺をご紹介しました~
元慶寺の場所はコチラ↓