今回ご紹介するのは
京都御所の建礼門(けんれいもん)横にある
道喜門(どうきもん)です!
道喜門と聞いてスグに思い浮かんだ人は
かなりの京都通だと思います
知る人ぞ知る門で
名前の由来にもなった
ある餅屋の男気溢れるストーリーが
道喜門には残されているんですよ♪
ちなみに建礼門は
建礼門
知っている人も多いと思うんですけれど
天皇陛下のみ通る事が出来る門ですよね
そんな建礼門から
東へ数メートル程行った所にある道喜門は
餅屋の川端道喜(かわばたどうき)により
造られたといわれています
御所の修繕を
織田信長(おだのぶなが)が命じた際
川端道喜は工事を監督する
工事奉行として任につき
資材搬入の勝手口として
塀をくり抜いて作ったのが
道喜門なんだそうです
でも修繕の際に作った門なら
後々、取り壊されるんじゃないの?
って思いますよね
でもそうならなかった理由が
川端道喜という人物を知ると
見えてくるのでご紹介します♪
室町時代後期
蛤御門(はまぐりごもん)の前に
蛤御門
屋敷を構えていた川端道喜は
『御朝物(おあさもの)』という
毎朝、後柏原天皇(ごかしわばらてんのう・第104代天皇)に、お餅を献上する
お役をもらったそうなんですね。
※御朝物は塩餡で包んだ球状の餅だったみたいです。
実はこの頃、京都の町は
応仁の乱(おうにんのらん)等の戦乱が長く続き
大変荒廃していました。
京都の町がそんな状態という事は・・・
当然、御所も荒れるがままという状態ですよね
そして、諸国からの貢物も
御所に十分には入ってきていなかったと
いわれています。
民が困窮すれば
朝廷の財政も逼迫(ひっぱく)しますから
天皇のお食事も
十分に整える事が出来なかったそうなんですね
ちなみにどれほど
困窮していたのかと言いますと
通常、陛下が御即位されると
即位の礼が行われるはずなんですけれど
あまりにも財政が逼迫していたのか
21年もの間、執り行う事が
出来なかったそうです。
けれどそんな中、川端道喜は
御朝物(おあさもの)を
献上し続けたんですね~
それも1度や2度ではなく
天皇が東京へ移られるまでの
約300年もの間、毎朝毎朝
御所に御朝物を献上を続けました!
自分も決して楽では無いはずなのに
凄い事ですよね
後柏原天皇も
「御朝物はまだか♪」
と、毎朝心待ちにされていたと
いわれています
江戸時代に入ると次第に豊かになっていき
お餅を食べる事はなくなったそうなんですけれど
それでも朝食の前には、お餅を眺めるという
『朝餉の儀(あさがれいのぎ)』として
儀式として明治まで残っていたみたいです♪
おそらくこういった事から
建礼門横の小さな勝手口のような道喜門は
修繕後も取り壊される事なく
川端道喜の功績を称えて
現在でも残されているのではないでしょうか♪
ちなみに川端道喜のお店は
今も京都にあり
現在は十五代目なんだそうですよ。
川端道喜です。京都ノートルダム女子大学の西隣になります。
代々世襲制で
川端道喜という名を継がれているんですけれど
もともとは渡辺綱(わたなべのつな)の子孫といわれる
北面の武士である渡辺進(わたなべのすすむ)が
1503年(文亀3年)に武士を辞めた後
餅屋を営んだのが始まりといわれています
※渡辺綱は土蜘蛛退治で有名な源頼光(みなもとのらいこう・よりみつ)の四天王の1人です。詳しくは、嵯峨大念仏狂言 2012(清凉寺)の記事をご覧ください。
もちろん一般の方でも購入できるので
近くを訪れた際は寄られてみては
いかがでしょうか