今回ご紹介するのは
京都市西京区の下桂(しもかつら)にある
御霊神社(下桂御霊神社)(ごりょうじんじゃ(しもかつらごりょうじんじゃ))です!
ちなみに御霊神社という名前の神社は
京都市内にもありますよね♪
もう皆さんご存知だとは思いますけれど
上京区にある上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)の正式名称も
御霊神社と言うんですよ
こちらの御霊神社は
下桂にある事から
下桂御霊神社(しもかつらごりょうじんじゃ)
とも呼ばれ、876年(貞観18年)の4月18日に
橘逸勢(たちばなのはやなり)を祀ったのが
始まりと伝わっています
それ以来、この地域の産土神となったそうです
逸勢については
また後ほどお話するとしまして
まずは神社の中をご紹介していきましょう
東鳥居をくぐると
東鳥居
広い境内の先に
舞楽殿(拝殿)(ぶがくでん(はいでん))が見えます。
舞楽殿(拝殿)
その舞楽殿の横には
能舞台がありましたよ
能舞台
そして能舞台の廊下の壁には
逸勢筆と推定される巻子本
『伊都内親王願文
(いとないしんのうがんもん)』
の写しがかけられています
長さは約5メートル程もあり
かなり大きめなんですね~
伊都内親王願文とは
説明書によりますと
桓武天皇(かんむてんのう)の第8皇女
伊都内親王が
母である藤原平子(ふじわらのたかこ)の遺言に従い
山階寺(興福寺)東院西堂に
香灯読経料として
墾田十六町余、荘一処、畠一丁を
寄進した時の願文だそうです
そして伊都内親王が
両親の追善と一族の安穏と繁栄を
祈願したものみたいです
こちらは収蔵庫です。
収蔵庫
そして舞楽殿の前には本殿があり
ご祭神である橘逸勢が祀られています
本殿
冒頭で触れました
逸勢についてご紹介しますと
彼は平安時代の804年(延暦23年)に
空海(くうかい)や最澄(さいちょう)らと共に
遣唐使(けんとうし)として
入唐を果たした人物なんですね
後に『書』に大変優れていたという事から
日本の書道史上、最も優れた3人である
『三筆』の1人に数えられています
そんな三筆の1人に数えられる腕前の
逸勢なんですけれど
始めからそんな実力の持ち主であったわけではなく
実は唐に渡った際に
語学が不得意であった事から
語学があまり必要で無い『琴』や『書』に
力を入れたんだそうです。
それが功を奏したのか
唐で書の才能を認められ
『橘秀才』と賞賛されるまでに
なったんだそうです
語学と筆記は
繋がりがありそうな感じがすると思うんですけれど
まさか三筆の1人に数えられる程に
なるなんて凄い事ですよね~
さて、そんな逸勢なんですけれど
842年(承和9年)に
なんと!謀反の疑いをかけられてしまいます
疑いの内容としては
伴健岑(とものこわみね)らと共に
淳和天皇(じゅんなてんのう・第53代天皇)の第2皇子だった
皇太子の恒貞親王(つねさだしんのう)を立てて
東国で反乱を起こすというものだったそうですよ
捕らえられた逸勢は
拷問を受けるんですけれど
最後まで罪を認めなかったといわれています。
この一連の事件を
承和の変(じょうわのへん)と言って
結局、逸勢は伊豆へと流罪になり
その途中で病の為に
亡くなってしまうんですね
けれどその後、彼の罪は許される事となり
863年(貞観5年)には
他の6柱(六所御霊)と共に祀られ
神泉苑(しんせんえん)で
御霊を鎮める為に御霊会(ごりょうえ)が
行われたそうです
※神泉苑の御霊会といえば祇園祭の起源とされていますよね。詳しくは、祇園祭 2012 吉符入・お千度の儀(八坂神社)の記事をご覧ください。
ちなみに実際の所
逸勢は謀反を起こそうと企んでいたのかと言いますと
現在では、逸勢は無実であったという説が有力で
承和の変も藤原氏による他氏排斥の1つであったと
考えられています
※藤原氏による他氏排斥については、櫟谷七野神社の記事をご覧ください。
そんな橘逸勢を祀る
下桂御霊神社の場所はコチラ↓