今回ご紹介するのは
京都御苑内の中山邸跡(なかやまていあと)にある
祐井(さちのい)です!
御苑と一言で言っても
とっても広いので
訪れた事がない人にはピンと来ないですよね。
そこで中山邸跡がどの辺りにあるのかを
わかりやすく言いますと・・・
京都御所の鬼門(北東)を守る
『猿ヶ辻(さるがつじ)』のさらに北側に
位置する場所ということになるんですよ
わかりますか??
これでわからなかったら地図を見るしかないと思います
ちなみに猿ヶ辻は
もともと『つくばいの辻』と言われていたんですけれど
夜な夜な悪戯をしていた猿を
金網に閉じ込めたので
その名前が付いたそうですよ。
※猿ヶ辻(さるがつじ)について、詳しくは猿ヶ辻(京都御所)の記事をご覧ください。
さて、そんな祐井は
御所三名水の1つに数えられています!
京都には名水と呼ばれる井戸が
いくつかありますけれど
ここ御苑の中にもあったんですね~
※京都三名水とは違うので間違えないように注意して下さいね。詳しくは、京都3名水の記事をご覧ください。
ちなみに祐井のある中山邸跡は
幕末の公家である
中山忠能(なかやまただやす)の邸宅跡なんです。
中山忠能は尊王攘夷思想の持ち主でしたが
後に公武合体派の公家として
皇女和宮(かずのみや)の降嫁を斡旋した人物
ともいわれています
※和宮について詳しくは、粟田神社の記事をご覧ください。
また、岩倉具視(いわくらともみ)らとともに
1867年(慶応3年10月14日)の討幕の密勅(徳川慶喜討伐の詔書)を
書いてもらう事に尽力したといわれ
その詔書には中山忠能の署名もあるそうですよ。
そんな中山忠能の娘の慶子(よしこ)は
孝明天皇(こうめいてんのう)の
典侍(ないしのすけ、またはてんじ・女官)となり
この中山邸で
祐宮(さちのみや)を産みました!!
ん?誰?
と思っている方もいるかもしれませんけれど
誰もが知っている人物なんですよ
日本人で誰もが知っている人物と言えば
シンキングタイム★
・・・
・・・
・・
天皇陛下ですよね♪
そうなんです。
祐宮というのは
後の明治天皇(めいじてんのう)の事なんですよ
ですから祐宮というのは
明治期の激動の時代に天皇であられた
明治天皇の幼名の事だったんですね~
そういった事もあって
中山邸跡には今でも
産屋が残されているそうです。
また中山邸には
かつて祐井とは違う別の井戸が
いくつかあったみたいですけれど
それらは全部1853年(嘉永6年)の夏の
日照りのせいで枯れてしまったといわれているんですね
そこで新たに掘った井戸が
今回ご紹介している祐井というわけなんです。
祐井から清水が湧き出たときは
中山家50人ほどの人が
生き返る思いをしたんだそうですよ。
そりゃそうですよね~
夏に家の井戸が全部枯れていたわけですから
死活問題だったと思います
これを聞いた孝明天皇は
祐井から清水が湧き出た事を
とっても喜んだそうで
井戸の名前を
明治天皇の幼名である祐宮に因んで
祐井と命名したといわれています。
たまにこの祐井を
明治天皇の産湯の井戸と書かれているものがありますけれど
祐井は明治天皇の産湯の井戸ではありませんよ~
なぜなら
祐井は明治天皇の2歳の時に
掘られた井戸だからなんですね。
ちなみに明治天皇はその後
この中山邸で4年間過ごされたそうです♪
残念ながら飲んだりする事は
出来ないんですけれど
御苑を訪れた際には
訪れてみてはいかがでしょうか
そんな祐井の場所はコチラ↓