今回ご紹介するのは
京都市下京区にある
![左女牛井之跡](2014/10/30/01/2014-10-30-1.jpg)
左女牛井之跡(さめがいのあと)です!
左女牛井(のち醒ヶ井)は
京都三名水の1つとして数えられ
その中でも天下一の名水として有名だったそうなんですけれど
現在は枯れてしまっていて
名水を味わうことが出来ないんですね
ちなみに京都三名水は
さて、そんな左女牛井なんですけれど
この井戸はもともと
源頼義(みなもとのよりよし)が築いた
六条堀川邸(現在の卜味金仏町、佐女牛井町あたり)の
中にあったものなんだそうです。
![こま札](2014/10/30/01/2014-10-30-2.jpg)
六条堀川邸には
源氏の義家(よしいえ)・為義(ためよし)・義朝(よしとも)が
代々住んでいたんですけれど
1159年(平治元年)に起こった平治の乱で
義朝が平清盛(たいらのきよもり)に敗れ
平氏によって焼き払われてしまったと言われています。
その後、義経(よしつね)が再興し
静御前(しずかごぜん)と過ごしたそうですけれど
1185年10月、土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん・頼朝に仕えた僧で武将)の
夜討ちにあうんですね
※源義経について詳しくは、源義経ゆかりの地巡りの記事をご覧ください。
昌俊を撃退する事に
義経は成功するんですけれど
再び館は燃やされてしまいます
![石碑](2014/10/30/01/2014-10-30-3.jpg)
気になる井戸の方はと言いますと
無事、残っていたようで
室町時代には、侘び茶というスタイルを作った
村田珠光(むらたじゅこう)が
側に住んで茶の湯に使ったと言われています。
足利義政(あしかがよしまさ)の東山山荘に
召された際には
醒ヶ井の水を汲んで茶を献じたそうですよ
また武野紹鴎(たけのじょうおう)や
千利休(せんのりきゅう)らといった
名だたる茶人が愛用したと伝わっています。
※利休の師である武野紹鴎について詳しくは、菊水の井跡 大黒庵武野紹鴎邸跡の記事をご覧ください。
さすが天下一の名水ですよね~
しかしその後
戦乱によって荒廃してしまったんだそうです
それを1616年(元和2年)に
織田有楽斎(おだうらくさい・信長の弟であり茶人)が
再興したんだそうですけれど
その後、 1788年(天明8年)の
天明の大火によって再び荒廃・・・。
※織田有楽斎については、正伝永源院の記事をご覧ください。
1790年(寛政2年)になると
茶道の家元の1つとして有名な
薮内家(やぶのうちけ)の6代・竹陰によって再興されました。
そうして安定したかに思えたんですけれど
1945年(昭和20年)の大戦の最中
空襲に備えた建物疎開によって撤去され
完全に無くなってしまったというわけなんですね
こうして現在は佐女牛井町や泉水町(せんすいちょう)
醒ヶ井通りとして名前だけが残っています。
ちなみに近くにある小学校の名前は
醒泉小学校(せいせんしょうがっこう)といって
これは醒ヶ井にちなんだ名前なんだそうですよ。
と、ここまでご紹介しておきながら
実はビッグなニュースがあるんです
実は・・・
醒ヶ井はもう枯れてしまって無いなんて
ご紹介しましたけれど
なんと!現在でも醒ヶ井は
形を変えて残されているんですね~
一体どこにあるのかと言いますと
それは和菓子屋の亀屋良長(かめやよしなが)の
店の前にあるんですよ
![亀屋良長にある醒ヶ井](2014/10/30/01/2014-10-30-4.jpg)
これは1991年(平成3年)に亀屋良長を新築した際に
1962年(昭和37年)以来
枯れていた井戸を掘りなおし
まだ水脈が生きていた事から
醒ヶ井と名付けたんだそうです。
![醒ヶ井水についての説明](2014/10/30/01/2014-10-30-5.jpg)
もともとの醒ヶ井と水脈が同じだそうですから
醒ヶ井といっても間違いではないですよね
余談ですけれど
亀屋良長で作られている和菓子は
醒ヶ井の地下水を地下80メートルからくみ上げ
使っているんだそうです。
名水で出来た和菓子は
どんな味がするのかワクワクしますね
ちなみに亀屋良長にある醒ヶ井は
一般の方にも広く開放しているようですので
お近くを訪れた際には
茶人も愛用した天下の名水を
味わってみてはいかがでしょうか♪
そんな左女牛井之跡はコチラ↓
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