今回ご紹介するのは
四条室町を上がった場所にある
菊水の井跡(きくすいのいあと) 大黒庵武野紹鴎邸跡(だいこくあんたけのじょうおうていあと)です!
2つの名所が重なっていますので
1つずつ、ご紹介していきますね
まずは菊水の井跡から
いってみましょう!
室町時代、この場所には
恵比寿様をお祀りする夷の社(えびすのやしろ)があったそうで
その社の隅に『菊水の井』という
名水の井戸が存在していたそうなんです
現在、菊水の井跡のある場所は
ビルが建っていますけれど
以前は金剛能楽堂(こんごうのうがくどう)だったと言われています。
※金剛能楽堂とは、唯一京都に本拠を置く金剛流が使用していた能の舞台の事です。
ビルの建設にあたって
跡地から井戸の遺構である
『菊水』の文字入りの井桁組み石等が
発見されたんですよ~。
もう既に菊水という名前に
ピンときてる方もいると思いますけれど
祇園祭の『菊水鉾(きくすいほこ)』は
この菊水の井に由来しているんですね
※菊水という名前は、中国の故事から取られています。詳しくは、祇園祭 菊水鉾(八坂神社)の記事をご覧ください。
ちなみに菊水の井跡のある場所は
※昔は、夷三郎町といったそうです。
そしてこの菊水の井跡の横には
大黒庵武野紹鴎邸跡と書かれた石碑が建てられていました!
菊水の井をこよなく愛したと言われる
武野紹鴎(たけのじょうおう)が
営んだ大黒庵があった場所でもあるんですね
武野紹鴎は天下三宗匠(てんかさんそうしょう)である
千利休(せんのりきゅう)、今井宗久(いまいそうきゅう)、津田宗及(つだそうぎゅう)の師匠
だった人物なんです!
※侘茶(わびちゃ)を完成させた利休は「術は紹鴎、道は珠光より」と説いたと言われています。
武野紹鴎は安土・桃山時代
堺の豪商の家に生まれたそうです。
のちに茶道に目覚め
村田宗珠(むらたそうしゅ)から茶の湯を学びました。
茶道に侘び、寂びを持ち込んだ人物とも言われています
※村田宗珠は、侘び茶というスタイルを作った村田珠光(むらたじゅこう)の養子となった人です。
その後、禅宗を学び、24歳で上京すると
菊水の井のある夷の社の隣に
庵を結んだと言われているんですね。
それが大黒庵という名前なんですけれど
これは恵比寿大黒にちなんでつけたんだそうですよ
とっても縁起の良い名前ですよね。
ちなみに、この場所に庵を結んだ理由として
菊水の井があったからと言われています。
お茶を点てるときに使っていたんですね
祇園祭・菊水鉾辻回しの様子
ちなみに菊水鉾では
祇園祭の13日から16日まで
表千家、裏千家、遠州流(えんしゅうりゅう)の方々による
お茶席が設けられますので
ご興味のある方は足を運ばれてみてはいかがでしょうか。
※遠州流とは、茶人や作庭家として知られる小堀遠州(こぼりえんしゅう)を開祖とする流派です。
そんな菊水の井跡 大黒庵武野紹鴎邸跡のある場所はコチラ↓
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