本日ご紹介するのは
京都市南区の唐橋にある
西寺跡(さいじあと)です!
近くには鎌達稲荷神社(けんたついなりじんじゃ)や
羅城門跡地(らじょうもんあとち)がある所なんですよ。
西寺(さいじ)と聞いて?マークが浮かぶ人は多いと思いますけれど
世界遺産としても有名な東寺(とうじ)は
皆さんご存知ですよね
実はかつて東寺の対になるお寺として
建っていたのが西寺なんです
794年(延暦13年)に
桓武天皇(かんむてんのう)の勅願で
平安京の造営が始ります。
その際に平安京の入り口
朱雀大路の南端に置かれた羅城門(らじょうもん)の
羅城門跡地に建つ石碑
東には東寺を
西には西寺を
官寺(国立寺院)として建てました。
つまり東寺と西寺は
左右対称の位置に建てられたというわけなんです♪
※外交や海外交易の施設である鴻臚館(こうろかん)として作られたという説もあります。
写真を見てもらえば
おわかり頂けますように
現在、西寺は無く
公園として残されているのみなんですね~
『史蹟西寺阯(しせきさいじあと)』と書かれた
石碑の立つ土塁の上には
3つの礎石(そせき)がありましたよ♪
この盛り上がった土は
戦前に松尾大社の御旅所として盛られたもので
西寺の遺構では無いとの事です。
ちなみに西寺の規模はどれくらいだったかと言いますと
現在の東寺とほぼ同じだったと言われています。
という事は・・・
相当大きなお寺だったというわけですよね
具体的には・・・
東西が約250メートル
南北が約510メートルで
金堂、講堂を中心に
南大門、中門、五重塔、僧坊、食堂などの伽藍があったと言われています。
『京都坊目誌(きょうとぼうもくし・京都の地誌、歴史書)』によると
東福寺(とうふくじ)にある殿鐘楼の梵鐘は
もともとは西寺のものだったそうですよ
その後、両寺は諸説ありますけれど
嵯峨天皇(さがてんのう)によって
東寺は空海(くうかい)に
西寺は守敏(しゅびん)に下賜(かし)されたと伝わっています。
※下賜とは、身分の高い人が身分の低い人に物を与える事を言います。
空海と守敏はともに真言宗の僧で
事ある毎に対立していたと言われているんですよ~
そんな中、干ばつが続き雨が振らずに困った朝廷は
824年(天長元年)の夏、空海と守敏を呼んで
神泉苑(しんせんえん)で雨乞い合戦を行わせました
守敏は西寺の金堂で
三日三晩寝ずに祈祷を行ったそうですが
とうとう雨は降りませんでした。
その後、空海が
神泉苑の竜神の池の祠で祈祷を始めると
神泉苑の善女龍王社(ぜんにょりゅうおうしゃ)
善女龍王を呼び寄せ雨を降らすことに成功したんですね!
これ以降、東寺は栄えて
西寺は衰退していったと言われています。
朝廷の守敏への信任も無くなった事は言うまでもありません
その後、西寺は
990年(正歴元年)に火災によって焼失
のちに再建されますけれど
1233年にまた焼失しちゃったみたいで
それ以降は再建されませんでした
ちなみに遠藤盛遠(えんどうもりとお)で
お馴染みの文覚(もんがく)も
塔の修理を行ったという記録があるそうです。
※文覚について詳しくは、恋塚寺の記事をご覧ください。
そして1921年(大正10年)3月3日には
国の史跡に指定される事になりました
1959年(昭和34年)から始った発掘調査によると
金堂・廻廊・僧坊・食堂院・南大門等の遺構が確認されたみたいですね~
また、一辺が22メートルもある
市内でも最大の井戸跡が見つかったそうですよ!!
井戸というよりそこまで大きいと
巨大なプールですよね
そんな西寺跡の場所はコチラ↓
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