今回ご紹介するのは
京都市北区紫竹(しちく)にある
久我神社(くがじんじゃ)です!
久我神社の創建については
いつ頃建てられたのか詳しい事は
わかっていないそうなんですけれど
この地をおこした賀茂氏によって
建てられたお宮であると言われているんですよ
平安時代中期の歴史書である
『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』に
初めて久我神社の記述が登場し
859年(貞観元年)のお正月の記録によれば
ご祭神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が
「従五位下に叙(じょ)せられている」と書かれているそうです
※叙せられているとは、位を授けられたという意味です。
また延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)にも
記述がある事から平安時代中頃には既に
この地域の鎮守社として祀られていたという事ですよね
※延喜式(約50巻)とは、平安時代に藤原時平(ふじわらのときひら)らが中心となって作った(律令の)施行細則です。神名帳とは全国の神社一覧が記載された延喜式の第9、10巻にあたります。
そんな久我神社は
上賀茂神社(正式名称は賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ))の
第8番目の境外摂社でもあるんです。
先ほどご紹介した久我神社のご祭神
賀茂建角身命は上賀茂神社のご祭神である
賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の
おじいさんにあたるんですよ~
ちなみに美の神様とも言われる
玉依姫命(たまよりひめのみこと)のお父さんでもあります
※玉依姫命について詳しくは、上賀茂神社 その3の記事をご覧ください。
では、賀茂建角身命はどんな神様だったのかと言いますと
初代天皇である神武天皇(じんむてんのう)が
九州から近畿に東征し、大和を統一した際
八咫烏(やたがらす)となって先導した神様なんですね。
こちらは熊野若王子神社の絵馬です。
八咫烏というのは
日本神話に出てくる三本足のカラスの事で
サッカー日本代表のユニフォームなどで
お馴染みだと思います
こちらは八咫烏をイメージしたおみくじです。
そんな賀茂建角身命を祀る久我神社なんですけれど
鎌倉時代から江戸時代頃までは
氏神社(うじがみしゃ)と称していたと言われています。
※その後、1872年(明治5年)に元の久我神社に戻したそうです。
また、立派なお宮という意味で大宮社(おおみやしゃ)と
呼ばれる事もあったそうですよ。
その事から大宮社の前の道は
大宮通と呼ばれたそうです
※現在でも大宮通(南北)は久我神社の前を走っています♪
では早速レポートしていきましょう。
鳥居をくぐると
目の前には本殿と拝殿が見えます。
こちらは江戸時代の
1628年(寛永5年)に建て代えられた
江戸幕府第2代目将軍である『徳川秀忠(とくがわひでただ)』の 寄進によるものなんだそうですよ
本殿は上賀茂神社や
上賀茂神社の他の摂社と同じように
一間社流造(いっけんしゃながれづくり)です。
※一間社とは正面の柱間が一つのものの事を言います。
拝殿は左右に庇(ひさし)がついている切妻造(きりづまづくり)で
妻側を正面にしている大変珍しいものなんだそうです。
※切妻造とは本を伏せたような状態の屋根の事で、妻側とは屋根が三角に見える側の事です。
正面から見ると
綺麗に庇が左右に伸びているのがわかりますよね
こちらは拝殿にかけられていた
航空安全と書かれた額です。
ご祭神の賀茂建角身命が
八咫烏となって神武天皇の道案内をしたことから
航空安全や交通安全の守り神として
ご利益があると信じられているんですね
そして手水舎のところには
久我神社の神紋でもある二葉葵がありましたよ~
二葉葵の葉は
徳川家の家紋としても知られていますよね
こちらはかつてこの辺りにあった
大宮の森の面影を残すケヤキの巨樹なんだそうで
樹齢600年と言われています
1987年(昭和62年)には
古い京都の歴史的環境を良く残していて
歴史上または学術上価値が高いとの事で
京都市指定史跡に指定されているんですよ
春秋の例祭には神馬が本殿を3回周る
春祭の牽馬の儀の様子。
牽馬の儀(ひきうまのぎ)が行われているので
ご興味のある方は見に行かれてみては
いかがでしょうか
ちなみに伏見区には同名の
久我神社があるんですけれど
漢字は同じでも、読み方が違っていて
伏見区の方は『こがじんじゃ』と言うそうですよ。
こちらも賀茂氏とゆかりの深い神社なんですね
そんな北区にある久我神社の場所はコチラ↓
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